ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ①

茜に染まったゴルフ・ボール

観戦事始めの日本オープン

 私が最初にゴルフを観戦したのは、昭和何年だったのだろうか、そんなことは少し調べればすぐ分かることだけれど、私は大体物事を調べて書くことは好きではない。記録というものは正確ではあるが、味のあるものではない。私は、ただ頭の中に残っている記憶だけを相手にこれを書きたい。それはあるいは間違いもあるかも知れない。しかし、そこには歳月というものを通してのみ生ずる多少の「詩」があるかも知れないからだ。

 それは今のJGKの事務局長の小笠原君が編集長で、M書店から出ていた『GOLF』という雑誌に頼まれて、わざわざ茨木まで見に行った、第何回かの「日本オープン」だった。
 茨木の駅から、時雨模様の道をハイヤーをとばして行った。一番のティからは、もう選手が次から次へとスタートしているところだった。そして、それを待っている人の中には大谷光明さんもいたし、赤星四郎、六郎さんもいたし、川崎肇、高畑誠一、成宮喜兵衛なぞという人たちもいたに違いない。が中でも私が一番よく覚えているのは、今のJGA常務理事をしている小寺酉二氏が、さっそうとして、しかし少し上って、そわそわとその辺を歩きまわっていた若い日の姿だった。

 ところで、このトーナメントの本命は、なんといっても茨木がホームコースの上、その少し前アメリカ遠征から帰って来たばかりの宮本留吉君だったのだから、自然私も彼の後について歩いたわけだが、ここに一つ忘れられない光景がある。
 それは多分、第一ラウンドの六番か七番のホールで、グリーンの直ぐ傍の土手の中にめり込んでしまったボールを、片足をバンカーに、片足をその土手にかけて、すさまじい勢いでブラストした留さんの姿だ。
 今でこそ、人当たりのいい好々爺だけれど、その時分の宮本というのは、本当にこわいようなおっさん(実は私より若かったのだが、私にはそう見えた)だった。

 レッスンなどとっても、あまり覚えがわるいと、腹を立てて「あてのやるようにやっておくれやっしゃ!」といった。(もっとも、そのお客もさる者で「お前のようにやれれば、お前なんかに教わりはしない」とやり返したというようなことも聞いたが)などという話もあったくらいで、まったくちょっと近づき難いような、気むづかしそうなおっさんだった
――が、これはいうまでもなく、当時の彼がそれくらい勝負に打ち込んでいたということの証拠ともいえよう。
 さて、その時ブラストされたそのボールがグリーンに乗ったのか、それともバンカーへ逆戻りしたのだったか、ということは、不思議なことに私はどうしても思い出すことができない。が、とにもかくにも、この不運が、勝つには勝ったが、彼の優勝をあのように苦しいもの、それだけ劇的なものにしたのではなかったか、と思う。

 劇的! それはまさに劇的であった。茨木の十八番ホールは、今はどうなっているか知らないけれど、フェアウエイの左がずっと大きな池になっていて、ティからちょうど秋の夕日の落ちる西南に向って延びているパー五のロング・ホールだった。そして、最後のラウンドでこのホールに来たとき、宮本は、優勝するためには、そのホールを四のバーディでゆかなければならないという立場に立っていたのである。
 「最後の十八番ホールは夕日がまぶしい」と彼はその回想記に書いている。「私はこのホールにすべてを賭けた。そしてスポルディングのニュー・ボールの包装を解いた。純白のボールの表面が夕日に映えてキラキラしていた。私はこのボールに祈るような気持だった……」と。
 私は、その赤い夕日の中に立った悲壮といってもいいような彼の姿を、今も眼の前に思い浮べることができる……。そして、ああ、実に彼はこのホールをバーディ四であげ、一ストロークの差で、第何回目かの日本オープンに勝ったのであった。


藤ヶ谷での関東・関西の対決

 次に思い出されるのは、多分、その翌年の春だったと思う。当時新興の名コース『藤ヶ谷』(今の藤ヶ谷とはちがう)で行われた日本アマチュアの決勝戦における成宮喜兵衛、鍋島直泰両氏の戦いだった。
 御両所とも、今日なお矍鑠(かくしゃく)として活躍しておられるから説明するまでもあるまいが、鍋島氏はいわずと知れた旧佐賀城主、鍋島候の御曹子、一方、成宮氏は西陣の大織元の若旦那。
 それだけでも時代劇を見るような顔合せの上に、当時の関東、関西の希望をになう若き代表選手だったのだから、御当人たちはいうまでもなかったであろうが、ギャラリーの熱の入れ方もすさまじいものだった。

 試合は一進一退、鍋島氏がそのスラリとした長身から、糸を曳くような球を打てば、成宮氏は相撲言葉でいうアンコ型の巨体から、豪快無比のボールを飛ばす…、まったく対照の妙をきわめたプレーぶりだった。しかも内心のファイトはともかく、見たところ御両所とも、お若いに似ず静かで、丁重で、紳士の試合とはかくの如きのものかと思わすに十分なものがあった。
 この時の試合は、非常に当たりの出ていた成宮氏の勝利に帰したが(ついでながら、これが日本アマチュアのカップが関西に行った初めてのことだったので、関西側の喜びは非常なものだった)、私はこの時の御両所の試合を見て初めて、ホール・マッチの味を知ったのである。

 話が少し先きにとぶが、この同じ『藤ヶ谷』コースでは、それから幾年か後に、日本のアマチュア・ゴルフ史上特筆に値するような試合が行われた。それは、その四、五年前にアメリカから帰朝するや、三年連続して日本のアマチュア・チャンピオンとなって、無敵とうたわれた佐藤儀一君を、当時まだ東大の学生だった原田盛治君が打ち破った、その試合だった。
 この原田君というのは、不幸にして数年前に亡くなったが、当時、これも若くして死んだ明大の久保田、日塔、東大の木場、九州の三好、麻生君などともに、いわゆる学生ゴルフの黄金時代を築いた一人で、地味ではあるが、まことに素晴らしいゴルファーだった。
 やや気の弱かった彼は、それまでに二、三回も日本アマチュアに出場しながら、たしかクォリファイもできなかったとおぼえている。それで、その佐藤君との試合の時、スタートの前に、私は先輩面をして、なにか説教をしたらしい。佐藤君を空前の大差に破った後、私は彼から大いに感謝されたのを覚えている。

 勝負は、こういうふうだった。午前中は双方ともまずまずの出来で、差があったといっても一ホールくらいのものだった。ところが午後になって俄然、原田が当たり出した。それは私と一緒に観戦していた、かっての日本アマチュア・チャンピオンの川崎肇氏をして、かく嘆ぜしめたほどであった。
 日く「幸せな奴だ、一生に一度という当たりが、日本アマの時に出るなんて……」
 この時の原田君の当たりは、まさにそういうものだったのである。そしてさすがの佐藤君も手のほどこしようもなく、勝負は忘れもしない十二番のグリーンですんでしまった。
――が、もしあの時、原田君があのままプレーをつづけて行ったとしたら、おそらく六〇台は確実だったのではなかったろうか。

 いずれにせよ、それは日本アマチュア・チャンピオンシップ・トーナメント史上、おそらくは最高のラウンドだったのではないかと思われる。と同時に、この原田の勝利は、日本のゴルフ界に一つのエポックを作ったものだったといってもいいかも知れない。
 というのは他でもない。ご承知の方もあるだろうが、佐藤君というのは、全盛期でもドライバーは二〇〇を少し越すくらいしか飛ばなかった。しかし、機械のごとく正確なショート・ゲームは、第三打を一〇中、七、八、ピンに寄せ、これをまた確実無比のパットで入れるという、そういうゴルフであった。彼は常に豪語して 「ゴルフはショート・ゲームにある」といったのである。
 このことが、佐藤が外様のせいもあって、当時の日本ゴルフ界の主流の人々を、いかに刺激したかは説明の要はあるまい。しかし、その佐藤に、現実に三年もつづけて日本アマチュアをとられてみれば、内心、いかに不愉快であっても、何もいうことはできない。その佐藤に、日本ゴルフ界の子飼いの原田が勝ったのだ。しかも、ドライバーを二七〇、八〇ヤードも飛ばす(当時はスモール・サイズのボールだったにもせよ)という、いわゆる大型ゴルフの原田が佐藤を破ったのである。
 日本ゴルフ界は、少なくとも関東のゴルフ界は狂喜した、といってもよかったかも知れない。そして「ゴルフはやはり大型でなければならない」という目標が確立されたといってもいいからである。


 みつめられて失格した初試合

 私事に捗って恐れ入るが、実はこの時のトーナメントには、私も出場していたのである。そして私の今日までのゴルフ生活中、もっとも忘れ難い経験をしたので、大方のお叱りは覚悟の上で、ここにちょっとその時のことをつけ加えさせていただく。
 というのは、多分抽選で決められたのであろうが、そのトーナメントのスタートの第一組の、しかも第一番に、私の名が書かれていたのである。
 当時は今と違って、出場者も少なく、アウトインなどと別れて出るなんてことはない。したがって、スタートの時間には、すべての参加者が、だいたい一番のティの所に集っている。だから私は、その人たちの前で、最初のティ・ショットをしなければならない、というわけだ。
 もし、その一打をチョロでもしたら、どうしよう、それはその年の日本アマチュア・チャンピオンシップ・トーナメントを汚すようなものではないか、いや、それよりも、第一ゴルフ仲間に顔向けができないではないか? 一週間も前から、私は落ちつけなかった。前の晩なんか、多分ロクに眠れなかったに相異ない。

 名前を呼ばれて、拍手に迎えられてティに立った時、私は自分の体がガタガタとふるえるのが分かった。ティ・アップする手もふるえ、ボールもうまくティに乗せられないくらいだった。それから先きは夢中だ。私はドライバーを一振した。
 幸いに、本当に幸いにも、ボールはややひっかかり気味ながら、ともかくフェアウエイの彼方に飛んでくれた。
 またひとしきり拍手が鳴った。が私は、どんなことがあっても、もう二度とあんなティにだけは立ちたくないものと思っている。
 この予選で、私は午後の十六番まで、多分クォリファイできそうなスコアできたが、池越しの十七番のショート・ホールで、私がティ・アップしたそのすぐ前で、私の手もとをじっと見つめて立った人(私は今でもその人の洋服の色まで思い出すことができる)が気になって、そのショットをトップし、ボールを池に落として、それで失格してしまった。

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