ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ②

わたしのゴルフを変えたサラゼンの打法

 彼の自伝によれば、あの有名なウォルター・ヘーゲンが、曲打ちの名人ジョウ・カークウッドと一緒に日本を訪れたのは、一九三〇年(昭和五年)のことだった。
 ――この時、彼は天皇陛下と皇居内のコース(そのコースでは当時まだ摂政の宮だった陛下が、来日されたプリンス・オブ・ウェールズとゴルフを楽しまれたこともあったのだが、今はどうなっているだろうか)で一緒にプレーをし、いくらかのインストラクションをすることにきまっていたところ、その日の朝、ひどい地震があったのと、上海での戦争がひどくなったのとで、それは取り止めになったが、その後侍従長の「鈴木貫太郎という人」を通じて黄金のシガレット・ケースを贈られたと書いている――。
 軍部に壟断される以前の日本には、実にそんな自由闊達な空気もあったのである。

 それはさておき、その時分、私ははたしてゴルフを始めていたのかどうかよく覚えていないが、ともかくある友人から切符をもらって『程ヶ谷』で彼のプレーを見たことは見た(いや、これは校正の時に思い出した。私が彼を見たのは、実はこの時ではなかった。それは彼が二度目に来日した時のことだった。
 そして、その時分私はもう確かにゴルフを始めていたのだから、それは昭和七、八年のことだろう。
 けれどもそんなことは、どっちにしたって大した違いはないから、このままにしておく)、そして、頭の髪を真ん中からピッタリと分けた色の黒いあのアメリカのゴルフの父といわれる男の風貌には、さすがに深い感銘をうけたものの、彼のプレーそのものについては、これほどの記憶がない――それは、私がゴルフというものが分からなかったせいであることはいうまでもないが――それよりも、むしろスタートの前に見せたカークウッドの曲打ちの方が、記憶に残っているくらいで、本当にもったいないことをしたものだと悔いられてならない。

 それにくらべると、それから数年の後に見る機会を得たジーン・サラゼンのプレーの方は印象が強烈であり、少しおこがましくいえば、私は大いに得るところがあったと思うのである。
 ヘーゲンの方は世界一周のゴルフ旅行の途中に立ち寄ったものだったが、このサラゼンの方は、どうして日本に来たのだったろうか。
 もしかすると、それは当時、駒沢から朝霞へ移転した東京ゴルフ倶楽部が、その新しくつくつたコースを記念する意味もあって、わざわざ招待したのだったかもしれない。

 ところで、この『朝霞』のコースについては、ぜひとも一言を費やさなければならない。
 それは今まで、日本の地上につくられた最高のゴルフ・コースだったからであるばかりでなく、あれだけのコースは、もう二度と再び日本に出来るかどうか、分からないからである。
 不運、短命にして、横暴な軍部に召し上げられ、叩きつぶされてしまい、今日ではアメリカ軍のキャンプと化してしまっているが(二、三年前、私は招ばれて、そのキャンプのコースへ行ってみた。少しは昔の面影でも残しているかと思って……。
 ところが今のコースは、全然別の所へ、別につくったもので、昔のホールは一つとしてその面影すらも残ってはいなかったのは悲しかった)、二〇万坪の平担な畑の上に、わざわざアメリカから呼んだ世界最高のゴルフ・アーキテクター、アリソンが、費用におかまいなく、池を掘り山を築いてつくったこのコースは、今ならばいったいいくらかけたら出来るであろうか。

 グリーンはいうまでもない。フェアウエイ全部が、一年中青い西洋芝なのだ。
 そして今日では、それも最もゆき届いた設備のあるコースのグリーンのみに見られるような、あの撒水器が、フェアウエイ全部に配置され、それが一斉に水を噴き上げる壮観は、今なお目に残るようなものだった。
 この全コースのエバ・グリーン化ということは、さすがの東京ゴルフ倶楽部の財力をもってしても、あまりに負担が大きすぎたのか三、四年ほどで取りやめになって、フェアウエイはふつうの日本芝になってしまったが、それでも、グリーンのコンディションだけはいつまでも素晴らしいものだった。

 そうだ、忘れもしない、この出来たてのコースの上で、初めて行われた一九三五年(昭和一〇年)の日本オープンの終った翌日、私はそこでプレーしたときのことを。
 それまで、私はボビー・ジョーンズなどの本で「玉突き台のようなグリーン」という言葉を読んでいたが、それがどんなものかということは、もちろん想像することすら出来なかった。
 ところが、その時の『朝霞』のグリーンで初めて、その言葉が分かった。そしてその後二度と、私はああいうグリーンを見たことはない。
 今日のいわゆるベントのグリーンなどというものは、あの時分の『朝霞』のグリーンにくらべれば、同じベントはベントでも、殿中の畳表とむしろくらいの相違がある。
 これはしかし、どういう理由なのだろうか、私はいつも不思議に思っているのであるが、キーピングの技術が落ちたのか、金がかけられなくなったのか、それだけの熱心な人がいないのか、専門家の返答が開きたいものである。

 それはまあ、それとして、そのグリーンを取り巻くバンカーが、いわゆる 「アリソン・バンカー」の名を残すごとく(今日では同じアリソンによって設計されたと称する川奈の富士コースの四番グリーンそばのバンカーにややその名残りをとどめてぃる)すさまじいものだった。
 しかし、念のために申しておくが、それは決して不合理なものではなく、そのホールのヤーデージによって、グリーンの広さとともに十分に考慮されたものだった。
 たとえば、四〇〇から四二〇、三〇ヤードのパー四のホールは、グリーンも大きく、その周囲のバンカーもあまりに深くはなく、前方も空いている。

 これに反して、ドライブ・エンド・ピッチのホールは、例外なくグリーンの前方は全部バンカーに囲まれ、グリーンは非常に小さいが、砲台のように高くなっている。
 そしてこれをオーバーしようものなら、それこそ文字どおり二階の屋根へ打ち上げなければならないような深いバンカーが待っている(ある年の日本アマに出場した私の友人の一人は、そのバンカーの一つの中で、なんと十七ストローク叩いた)というように、実に合理的に、かつ一ホール一ホール強い特徴をもっているという(だから、そのコースでそうたびたびプレーしたわけでもない私だが、今でもただ一つのショート・ホールを除いては、十七ホールの全部を一つ一つ眼の前に思い浮かべることができる)、そういうコースだった。だから、そのむずかしさも想像つくことと思うが……。

 このコースで私はサラゼンを見たのである。卒直にいって、日本へ来たときのヘーゲンは、いうならば彼の全盛期を過ぎていた。しかし、この時のサラゼンは(一昨年だったか、二〇年ぶりで彼がテレビ映画の解説者として来朝したと聞いたときには、なにか深い感慨にうたれたが)おそらく彼の全盛時代だったと思う。

 一番、四〇〇ヤードでのナンバー四アイアンのセカンド・ショット、六番のナンバー六アイアンのセカンド・ショット(これはインパクト直後グッと地面のなかに押し込むようなショットだった)、十一番、一八〇ヤードのショート・ホール、ここで一緒にプレーしていたプロたち――これが誰だったかということを私は忘れてしまったが、たぶん当時、東京クラブのヘッド・プロだった、今、日本プロ協会会長の安田幸吉君とか、陳清水君あたりの当時のトップ・プロ諸君だったと思うが、その人たちは、みなアイアンを使っていたが、サラゼンだけはウッドを使った。

 そして彼の打った球は、それこそグリーン前のバンカーから二間と離れてない所に立てられた旗に向かって、矢のように、低く、真直ぐに飛んでいって、緑の芝生の上に落ちたと思ったら、そのままそこに止った……ピンから一尺と離れない所へ……。
 そして私がびっくりして彼の方を見ると、その私の顔がおかしかったのだろうか、あるいは私が彼の一番近いところに立っていたからだったろうか、彼は手に持っていたクラブを裏がえしにして、つと私の方へ差し出した。見ると、そこには「五」という字が見えた。その時、私は初めてそういうクラブの存在を知ったのである。
 が、それよりも、もっと忘れ難いのはそのときのサラゼンの顔である。一口にいえば「どんなもんだい!」といったような感じのものだったが、なんともいえない稚気と自信と親しみとに溢れたもので、いっペんに彼が好きになってしまった。

 しかし、こんな書き方をしていると、あまり長くなりすぎる。
 だから、十三番のホールでサンド・アイアン(ついでながら、このサンド・アイアンというクラブは彼の創作したものだそうである)で打った文字どおり三フィートほどバック・スピンしたバンカー・ショットとか、十六番で、その前日の練習ラウンドの時、そばにいた赤星四郎氏に、あの右のバンカーを越すにはいくら打てばいいかと聞き、二〇〇でいいと聞いてこれを打ち、そのボールがバンカーに落ちたとき「ああ、これは二二〇打たなければ駄目だ」といっていた。その同じティから、こんどはちゃんとその同じバンカーを越していった、などという話はそれだけにして、私が彼のゴルフから得た結論を述べてこの回を終ることとしよう。

 一言にしていえば、その時まで、私はゴルフというものは(あるいはゴルフのスウィングというものはという方がいいかも知れない)クラブを振りまわさなければならないものと思っていた。
 ところが、サラゼンを見て、ゴルフというものはボールを打てばいいのだということが分かったということだ。
 要はそれだけだが、このことは私のゴルフを変えたといってもよかった。そして、それまでまことに不安定だった私のスコアを、割合いに安定したものにしたのである。

 なお、大事なことを一つ付け加えておく。それは、その時分私はシューベルトの悲恋を描いた「未完成交響楽」という映画の題名をもじって「未完成自叙伝」という題で、日本で初めてスクラッチ・プレーヤーとなった鍋島直泰氏の伝記を書いていて、始終お目にかかっていたので、サラゼンを見た直後お逢いしたとき(場所は忘れもしない「東京会館」のグリルの前のホールだった)、彼のプレーから得られた最も重要なものは何だったかとお聞きしたら、言下に答えられた氏の言葉だった。

 「右の膝が…」と氏は自分の右の膝頭を手でたたきながら「バックスウィングの間じゅう、右の膝が動かないことですね」
 正直いって、そのとき私にはその言葉の意味が分からなかった。心の中で案外つまらないことを、などと思っていたかも知れない。そして私がこの言葉の真の重大さを知るにはそれから実に二〇年の年月を要したのである。
 バックスウィング中、右の膝を動かすな、これこそ正しいゴルフ・スウィングをするために最も注意しなければならないポイントといってもいいのではあるまいか。

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