ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑧

日本のプロよ奮起せよ!

 久しい間、プロ諸君は口を開けばトーナメントの賞金の増額を望み続けて来た。そして、今やその望みはかなえられて、私など意外とするほどのテンポで大賞金トーナメントが次から次へと作られている……。
 そして今日ではアメリカを除けば、日本は恐らく世界第二のゴルフ賞金国ではないかと思われる位である。蓋し、プロ諸君の要望はかなえられつつあるといってもいいであろう。
 ところで、この要望の実現に対してプロ諸君の姿勢は果たして今のようでいいのであろうか。
 昨年の暮から今年の春へかけての三大賞金トーナメントの優勝を悉く台湾勢に持っていかれたというようなことを私はいっているのではない。
 思えばこれも不甲斐ないことだが、まあ勝敗には時の運というものもあるから、それは目をつぶろう。目をつぶれないのは彼等のゴルフそのものである。彼等のゴルフの内容であり、技術である。
 自慢になることではないが、私くらいトーナメントを見ることが好きで、彼等のプレーを観て来た人間は少ないと思う。ところがその私でさえ、近頃はもうそれを観にいく意欲を失いつつある。そして問題は実にここにあると思う。


 端的にいうと、彼等のゴルフはここ数年来、少しも(或は殆ど)進歩していない。そして、只一人のスターらしいスターも生まれないということである。
 勝負はいつも決りきったひと握りの古顔によって争われる ーこれではいくら気違いじみた私などでもわざわざ朝起きして、遠い、不便なコースまで出かけていく気がしなくなるのも当然だろう。
 或大賞金トーナメントの主催者の幹部に聴くと、今やプロ諸君は有項天で、これからも大賞金トーナメントの数は増え、わが世の春が続くように思っているそうであるが「もしトーナメントの内容が今のようなままなら、見物人は減りこそすれ、増えることはないでしょうね」ということだった。
 そしてもしそういうことが続けば、折角出来た大賞金トーナメントの前途はどうなるであろうか。いいたいことではないが、久しからずしてそれは姿を消すことになるのではあるまいか。
 主催者は道楽でやっているのではない。慈善事業でやっているのでもない。皆それぞれ応分の反対給付(今の場合、大ていは宣伝効果ということだ)を期待してやっているのである。
 ところで、もしそのトーナメントへの人の集りがあまり芳しくなく、従ってあまり宣伝効果もないとわかれば、彼等は決して長くそれを続けようとはしないであろう。そして折角生まれかかった大賞金トーナメントはシャボン玉のようにはかなく消し飛んでしまうであろう。


 故に、私は諸君に切言する。忠告するといってもいい。諸君はトーナメントの賞金の増額を求めるのもいいが、それよりも先ず諸君のゴルフを磨くことである。磨いて、ギャラリーを魅きつけるようなゴルフを見せることである。
 そして理想をいうならば、主催者には金銭上の負担はかけないことである。現に昨年の全米オープンでは支出一七万九〇〇〇ドル(賞金を含む)に対して、入場料だけでも二四万ドルを越し、テレビその他の収入を合せると一〇何万ドルかの黒字だという……
 まあ、そこまでいくのは無理としても、少なくともそういう傾向に持っていかなければ、折角実現した諸君の夢も長続きしないであろうことは私が保証する。諸君は決して有頂天になっていられる時ではないと信ずるが如何。

穴を大きくしてみたら

 ホールを大きくしてみたらという考えは、何も私が初めて思いついたことではない。
 あれは、もう三〇年以上も前になるであろうか。当時ゴルフ界をリードしていたといってもいい位の大選手(今日でもテレビ番組の解説者として活躍しているから、御存知の方も多いであろう)がそれを提唱したことである。
 ただ、その時彼はホールの直径を八インチにしたらといったので、これが彼のこの発案が一笑に附された原因ではなかったかと私は思っている。
 実際に掘ってみるとわかるが八インチの穴などというものはまるでビヤ樽をしずめたようなもので、パットのスリルなんてものは全然なくなってしまう。


 が、然し、このホールを大きくしてみらたという考えそれ自体は全く理由のないものだとは私は思わない。それどころか大いに研究してみる価値はあることのように思うのである。理由は二つある。
 一つは本質的なもので、私はゴルフ・ゲームの中でパットのウエイトが少し重すぎるのではないかという気がする -勿論そこがゴルフのゴルフたるところなのだと保守派の人々はいうであろう。(正直いって私自身でも心のどこかで、そう思っているようにも思われるが)そしてそれはまた、正にその通りかも知れない。
 が、七二のパーに対してパット三六というのはいかにも過重ではないだろうか。まして近頃では一般ゴルファーの技術が進んで、グリーンまでは殆ど規定のストロークでいくようになると、勝負は殆どパットで決まるようになる。ゴルフの試合はパットのコンクールみたいになりつつある。


 ところで、ホールを適当に大きくすると、どうなるであろうか。くだくだしい説明は紙数の関係上できないが、要するにパットの巧拙の差が少なくなり、その重要性が減り、パット以外のショット巧拙の重要性が増すことになり、ゴルフはパットのコンクールから遠ざかることができると思う。
 第二の理由は、もつと便宜的なものである。
 近頃のようにコースが混むと(特に日本で)ウィーク・デーでもワン・ラウンドに四時間も五時間もかかることが珍しくない。その大部分がグリーンでのショート・パットのためであることはいうまでもない。
 二フィートから三フィートのパットをあっちから見たり、こっちから見たり、それを三人も四人もでくりかえしやられたのでは、後で待っている方はたまったものではない。
 ところで、ホールの大きさをひろげたら、この無駄な時間は半減され、プレーの流れはスムースになることは間違いないであろう。そうしてもゴルフの面白さは減りはしないと信ずる。いや、考え方によっては、むしろ愉快さを増すかも知れない。


 但し、ここで大切なのは、そのホールの大きさをどれ位にしたらいいかということである。
 TBSゴルフ場に無理をいっていろいろの大きさのホールを作ってもらって、実際にやってみた。結論をいうと現在の四インチ四分の一を四インチ半にしたのでは大きくしただけの効果が少なすぎるし、これを五インチにすると、どうも少し大きすぎるようで、丁度その中間の四インチ四分の三くらいが適当ではないかと思う。
 この案には恐らくいろいろと反対や中には非難さえ出てくるであろうが、私はできたらそれらの反対の御意見をうかがい、そういう方々とも、ともどもこの間題を研究してみたいと思う。
 ただし、その反対の理由が長い間のしきたりだからとか、ルールだからとかいうものだとすれば、初めから問題にならない。
 ゴルフのしきたりやルールがこの二〇年の間にどれだけ変えられただろうか。ボールの大きさまで変えられてしまったではないか。ホールの大きさを変えて、どうしていけないというのだろうか。

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