ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑥

 息づまる死闘戸田と宮本のマッチ・プレー

 この観戦記「戦前篇」の最終回として、私が今日まで見たゴルフの試合中、最も素晴らしく、また最も忘れ難い一九三九年の十月末、川奈で行われた日本プロの決勝で、宮本、戸田の間に闘われた文字どおりの死闘について書きたいと思うのであるが、その前に東京、保土ヶ谷、霞ヶ開、藤沢を除いたら、戦前関東でただ一つの日本オープン開催コースの名誉をもっている相模について、ひと言書いておくべきかと思う。
 卒直にいって、相模のコースは、今述べた諸コースおよび、関西で日本オープンの行われた茨木、猪名川、広野に較べれば、あらゆる意味からいって二流のものとしかいい得ない。

 しかし、どういうわけか(交通の便のためかも知れない)ここでは戦前、戦後を通じて実に沢山の公式試合が行われている。だから、私の記憶のなかに残っている出来事も、それが果たしていつものやら区別出来ないものばかりだ。
 が、その中で一つ、はっきりと思い出されるのは、一九三七年の日本オーブンに優勝した陳清水が、あの大力ップを抱えて泣いていた姿である。この素晴らしいカップは、朝鮮で行方不明になったという話だが本当に残念なことだ。

 その時、一緒に見に行っていた私の家内など、今でもあの時のことを思い出すと涙が出そうになる、と言っているくらいだ。そしてこのことは、おそらくは彼の人柄そのものの然らしむものかと思う。
 まことに、幾十、百人のプロを私は知っているかも知れないが、そのなかで一番人柄の良いのは誰かと問われれば、躊躇することなく、陳清水というだろう。
 いや、あえてゴルフのプロだけではない。彼くらい謙虚で、懸勲で、誠実な人間は、どの社会にもそうはいないだろう。彼に逢うたびごとに、私は人間はかくこそありたいものという気がするのである。

 素晴らしい! しかし難かしすぎる!

 一九三九年十月二十一日の川奈! それはこの歴史的な決戦にふさわしく、からりと晴れ上った晩秋の空だった。
 朝八時、相模灘を眼下に見下ろす富士コースの一番ティ・グラウンドは、しんと静まりかえっていた。
 この富士コースというのは、つい昨年、世界アマ選手権が行われて、世界的に有名になったが、今は無き朝霞コースとともに、名匠アリソンが心血をそそいだといわれるコースで、当時も今もシーサイド・コースとしては日本一のものだということに異論を説える者はないだろう。

 かの有名なべブル・ビーチは知らず、あの富士コース(大島コースも私は好きだ。自分でプレーするという意でなら、むしろ富士コースより好きだ)のような勝景の地に、あれほど雄大なコースをつくることは、今後おそらく不可能ではないかとさえ思われるが、また難かしいことでも日本一かも知れない。
 どこをどう直したのかということは別に調べたわけではないから分からないが、私の感じとしては、ここ十数年の間に、いくらかやさしくなっているように思われる。
 それが出来た当時には、ちょうどその頃来朝した、全盛時代のサラゼンをして、「素晴らしい!しかし、難かしすぎる!」
 Wonderful ! But too hard ! と嘆かしめたほどだった。

 その日本一の難コースで、今や宮本、戸田の両勇が日本一を争わんとするのである。
 時に宮本は三八歳、戸田は二七歳、しかも戸田はその年の日本オープンと関西オープンそれに関西プロをとり、もしこの日本プロに勝てば、いわゆる国内のグランド・スラムを完成するという場所に立っていた。そして、なんとかしてこれを阻止せんとする宮本とぶつかったのである。
 コースではいやというほど見ていながら、私が留さんと個人的に知り合いになったのは最近のことだった ー今では最も親しいプロといっていいかも知れないがー それにひきかえ戸田の方は、広野までレッスンを受けに行ったような仲だったのだから、その時の私が戸田側に立っていたことは申すまでもあるまい。

 宮本と戸田の壮烈なマッチ

 試合は、文字どおりの白熱戦で展開した。十二番まで二人のスコアは二アンダー・パーのオール・スクエアというものすごさだった。
 が、次の十三番で、宮本に一つの不運があった。真っ直ぐに飛んだ彼のティ・ショットが、ちょつと低かったばかりに、クロス・バンカーの土手に当たって、ボールがそこの深い草の中に入ってしまったのである。
 そこで初めてボギーを叩いた宮本の一ダウン。それから一七番でスタイミ一に会って、三パットして二ダウン。
 そして最後に一八番のセカンドをグリーン手前の、あの深いバンカーに落とし、しかもそのバンカー・ショットを失敗したことが致命傷となって、午後の奪闘もむなしく、あの有名な一六番のショート・ホールで常勝宮本もついに戸田の前に屈したのである。

 今でも、私はあの十六番における最後の光景を忘れない。どちらが先に打ったのかは憶えていない。宮本のボールはグリーンの上、ピンから三〇フィートくらいのところにあり戸田のそれはグリーン手前の崖の下に落ちていた。
 そこからはご承知のとおり旗もピンも前から見えない、戸田は、あの高い土手を登ったり降りたりして、幾度もピンとボールの間を眺めまわしていたが、やがて打ったピッチ・ショットは見事にピン傍二ヤードに寄った。

 ギャラリーから一斉に柏手が起った。その拍手の止むのを待つようにして、宮本はそのバーディ・パットを狙った。
 それはダウン・ドーミーの試合を一ホールでものばそうとするというような消極的な雰囲気ではない。まさに、それを入れて後の二ホールをとって延長戦に持ちこまずにはおかない、というような気魄をもって……。
 彼のそのパットは、しかし惜しいところで右にそれた。そして戸田は二ヤードのパットを見事に沈めたのである。

 あの富士コースでの四日間の連闘は、三八歳の宮本にとつては、あるいは過労であったかも知れない。一方戸田は、二七歳の若さと、それこそ彼のいうごとく飽くなき闘志とで、この不敗の敵に勝ったのかも知れない。
 それにしても、私は今までに、あれほど壮烈なマッチ・プレーを見たことはないし、おそらく、これから後も見ることはないだろう。

 戸田の大きな贈りもの

 その夜、宿に帰って家内と二人で食事をしていると、そこへ同じ宿(現在関東プロ協会の会長をしている村上義一君の実家の“村上”という旅館だった)に泊っていた戸田君がひょっこり入ってきた。
 見ると、手に一本のクラブをもっている。そのクラブを私の方に差しだすと、彼はいったのである。
「このドライバーで、私は今年四つの選手権を取りました。これをあなたに差し上げたいのです」と。

 はじめ、私は冗談かと思って彼の顔を見た。ところが、彼の顔は真面目なのだ。私はまったくドギマギしてしまった。
 私が彼にどれだけのことをしたというのだろう? その私に、なんだって彼はそんな大きな贈りものをしようというのだろう? いうべき言葉を知らずに、私は黙っていた。すると彼は、ニコッと笑ってそのまま部屋を出ていってしまったのである。

 そういえば、私にはもう一つ、前にも触れたラリー・モンテスが日本を去るとき、記念にといって私に呉れて行ったクラブがある。それはスプーンだが、このスプーンについては忘れられない一つの光景がある。
 憶えておられる方も多いと思うが、藤沢の六番ホールというのは、ティから二二〇~五〇ヤードほどの間、左側が半円形の深い谷になっていて、その谷に沿ってのびたフェアウエイの左三分の一くらいが、一段低くなっているという、難かしくも面白いホールだった。

 モンテスはここのティ・ショットをフェアウエイの一段高い方の端に上げてしまったのである。立つことの出来るのは下の段だ。
 どうするだろうと見ていると、彼はバッグからウッドを抜き出すと、なんの躊躇もなく、自分の立っているところより二尺以上も高いところにあるボールを打ち飛ばしたのである。
 それはおそらく、非常にフラットなスウィングだったのであろうが、その時の私には、それがどんなふうに打たれたのかも分からなかった。そして打たれたボールは、日にも止まらぬ早さで二〇〇ヤードほど先きの緑のグリーンに乗った。
 それは私が今までに見た最も不思議なショットの一つだったといってもいいであろう。モンテスからもらったのはほかでもない。このクラブなのであるが、ドライバーほども厚いフェースを待ったへーゲンのこのスプーンは、今も私の手許にある。

 戸田から贈られたドライバーも、モンテスのスプーンとともに戦災をまぬがれて、私の手許にあったのだが、四、五年前、私はこれを美津濃運動具店の社長水野氏にプレゼントしてしまった。
 というのは、それがほかならぬ美津濃の製品でもあり、それよりも、そういう歴史的なクラブは、私蔵するよりもむしろ、そういう人のところに贈って、公式に保存してもらった方がいいような気がしたからである。

 これで、私の観戦の思い出「戦前篇」を終る。「戦後篇」も書く気持ちがないではないが、それはまだ記憶が生々しすぎて面白くない。だから書くとしても、もう少し年月が経ってから、もしその機会があったら書いてみたいと思っている。

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