ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑤

フェースがくぼんだファイター戸田の猛練習

幻の名コース

『藤沢』それは『朝霞』とともに、戦前のゴルファーにとっては忘れ難いコースだ。
 東海道線、藤沢の駅からタクシーで十分とはかからない丘の上に作られたこのコースはあらゆる意味において、私の見た中でもっとも傑れたヒリー・コースだった。
 クラブハウスも朝霞の重厚なイギリス風のそれと対照的に、青い屋根の南欧風の瀟洒な建物で、階上には宿泊できるホテルの設備もあり、食べ物もたしか横浜のニューグランド・ホテルの経営で、大変にうまく、サービスも今日のゴルフクラブなどからは想像もできないほどゆき届いたものだったし、そのまたロケーションが素晴らしいものだった…が、このコースもまた戦争中、海軍かなにかに召し上げられ、今では「しいの実学園」とかいう孤児院や、カソリックの教会などに払い下げられて、めちゃめちゃになってしまったとのことである。

 そういえば『藤ヶ谷』も戦争中に工兵隊とかに召し上げられて、今でも自衛隊の通信所かなにかに使われているらしい。
 なぜ、当時一流のこれらのコースが、かくもそろって軍部の餌食になったのだろう。それは一つには、軍部独特のいやがらせでもあったに違いないけれど、一つには、それらのクラブが、不幸にも立派な建物を持っていたからでもあったのだろう。
 そして後に残されたのは、いづれも二流以下のコースばかりで、今日、いまだこれら戦前の一流コースに匹敵するだけのコース(建物は別として)というよりクラブができないというのは、まことに淋しい限りである。

 さもあらばあれ、この藤沢の十七番のフェアウエイで、私は私自身の禁を犯かして、戸田に話しかけたのである。それも日本オープンの最中に。
 それは、いったいどうしてだったのだろうか?
 その頃、戸田に傾倒していた私は、朝、スタート前の練習の時から、ただ彼のショットのみを観ていた。そして、そのあまりの見事さに酔ってしまった私は、ちょうど、人影もあまりなかった十七番のフェアウエイで、当時私の最大の悩みを包みかねて、こう訊ねたのである。
「ねえ、戸田君、どうしたらヘッド・アップしないようになるかね」と。

 一面識もない私から声をかけられて、彼はびっくりしたように私の顔を見たが、すぐ、こう答えてくれた。
「それはヘッド・アップしないようなスウィングをしなければ駄目です」と、そして彼はそこで〝右手で上げて右手で打つ″という彼のゴルフ理論を、ごく簡単に説明してくれた。「ゴルフは右側でするんですよ」と。
 こうして戸田と知り合いとなった私は、その年の冬、末弟の結婚披露が神戸で開かれたついでもあって、広野へ彼のレッスンをとりに出かけたのであった。

 電報でも打っておいたのだろうか、戸田は私を待っていてくれた。それに、名前を忘れてしまって申し訳ないが、当時の広野の支配人の方(それはもしかしたら、今、田辺の支配人をしておられる上田さんではなかったろうか)が大変厚くもてなしてくれた。私と一緒に食事をし、その食事はもちろんのこと、グリーン・フィも、そしてキャディ・フィまで私は一銭も払わなかったような気がする。
 今日では、いわゆる一流のクラブをもって自任しているところでも、お客をもてなすなんてことはおろか、会員に対してさえ、礼儀をもって接する従業員は少ない。

一本松を狙う戸田の猛練習

 それはそうとして、食事をすますと私は戸田に連れられて、まず練習場に行った。そして、そこで有名な一本松を見た。それは練習場のティから二〇〇ヤードほど向うに立っている一本の大きな赤松だった。噂によれば、戸田はブラッシーでそれを狙って、今や十に七、八はその木に当てるといわれていたものだ。
 その時は、どうしたわけか、その噂について何も訊いてみなかったが、後年、戸田にその真偽のほどを確かめたところ、彼は〝伝説ですよ″と笑ったが、しかし、彼の練習はそれぐらいすさまじいものだったことは事実らしい。

 アメリカの有名なゴルフ評論家、ピーター・クランフォードなどは、その著書の中で、「ゴルフがハード・トレーニングによって上達し得るものであることは、トーチ・トダによって証明された」と書いている。
 まことに、昨年の秋、梅郷(千葉CC)で行われた日本オープンのとき、私は彼のスプーンを見て驚いた。そのフェースはボールが当たるところがくぼんでいるのである。五〇歳近い今日でも、彼はまだそのように球を打っているのであろうか。

 その戸田から、右のゴルフをみっちりと教えてもらった。私の体は、ダウン・スウィングで左に動きすぎていたらしい。戸田は私に〝右の足の上に乗ったままで打て〟といった。「ヒップで打って下さい。ヒップで」と、その時彼がくり返しいっていたのを、今でも憶えている。

 彼のいうように、左の尻を後ろに引いて、右サイドで打つようにしてから、なるほどそれまでのようにはヘッド・アップしなくなった。いや、たとえヘッド・アップはしてもそれから受けるダメージは、それまでのようにはなはだしくはなくなった。そうして私のスコアは安定してきたのであった。
 レッスンを終ってから、私たちは二人っきりでコースをまわった。驚いたことに、そのラウンド中、私たちはただ一人のプレーヤーにも逢わなかった。

 広野はまことに聞きしに勝る素敵なコースだった。レイアウトもさることながら、あの真青な池の水と、関西特有の赤松の林が、水と木に乏しい関東コースに馴れた私の眼にはなんともいえず美しかった。なるほど、これは関西のゴルファーが日本一と誇るだけのことはあると思った。
 その日私は、バック・ティから八四か五でまわって戸田に賞められたが、これは私のゴルフ生活中もつともいい出来のラウンドの一つだったかも知れない。
 ところで、話を藤沢での日本オープンに戻そう。

 不運を克服した寅さん

 戸田は全く素晴らしいゴルフをしてはいたが、それでも戸田はこのトーナメントに勝つことはできなかった。優勝したのは、当時たしか保土ヶ谷にきていた台湾のプロの林万福で(スコアは二九四)戸田は三ストロークおくれて二位だった。
 これを見ても、彼が天性のファイターであって、メダル・プレーよりもマッチ・プレーに強かったことが分かるだろう。事実、彼がメダル・プレーの日本オープンに勝ったのは、この藤沢の翌年、彼のホーム・コース広野のときの一度だけであるが、ホール・マッチの日本プロ(日本プロはつい最近までホール・マッチの試合であった)では、らくらくといくたびも選手権を握っているのである。

 なお、このトーナメントで特筆すべきは、戦後の日本ゴルフ界の第一人者、中村寅吉君が、二九八で宮本とともに三位に入って頭角を現わし始めていることである。この時から二年後の一九四一年に、保土ヶ谷で行われた戦前最後の日本オープンで、寅さんは当時日本にきていた朝鮮のプロ延徳春に三ストローク差で二位になっている。
 このことから考えてみると、彼のまさに入ろうとしていた全盛期は、ちょうど戦争中のブランクの時(一九四三年から四九年までの八年間、いっさいの公式競技は行われなかった)に当たっていたわけで、この点まことに不運だったともいえよう。

 しかし、この不運を克服して、年齢四〇を越してから、カナダ・カップに優勝するという日本ゴルフ界最大の偉業を成し遂げたということは、そして、寅さんの時代を築き上げたということは、なんともいいようのないほど立派なことだったと、私は思う。

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