ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ④

日本が生んだ最強のゴルファー
戸田藤一郎

長打で気を吐いたトーチ戸田

 朝霞で初めての日本オープンが開かれた年(一九三五年)の四月には、宮本、安田、浅見、中村(兼)、陳(清水)、戸田の六人のプロがアメリカヘ遠征するという出来事が起こった。
 これより数年以前、宮本が既に二度も、アメリカはおろか遠くイギリスにまで遠征したことはあったが、六人ものプロが、一つのチームのようなものを作って外国に遠征するなどということは、それまでの日本ゴルフ界にとつては夢のような話で、まことに画期的な出来事といってもよかった。
 しかも、その翌一九三六年には、前年行った六人の中から、とくに戸田と陳の二人が選ばれて、再びアメリカに渡った。ところでこの二人が再度渡米したときの模様をはからずもウォーター・ヘーゲンの手記の中に見出したから、少し横道に外れるようだけどもここに紹介しておこう。

 「一九三五年、アメリカに着いた日本のプロ・ゴルファー六人の中で、日本プロ・チャンピオンの“Torchi”戸田(これによって私は初めて戸田がトーチ、トーチと呼ばれる理由を知った)が最も精彩に富んでいた。彼は過去幾十年の間にアメリカを訪れた外国のゴルファーの中の、最高クラスに入るべき者であった。
 たった五 フィート 二 インチの身長と、やっと百十パウンドを越すくらいの体重をもって、彼はわれわれアメリカ人ゴルファーの大きなショットと対等に戦ったのである。実に彼はここ数年間にわれわれが見た中のロンゲスト・ヒッターの一人だった」と書いている。

 そして続けて日く、「次の年、一九三六年の一月に‟トーチ”と彼の仲間の陳とが、再びアメリカに来た時には、直ちに私と‟トーチ″との間に試合の話がまとめられた。場所はジョージアのオーガスタで、日時は四月の四日だった。日本の大使(そのときの大使は誰だったのだろうか知りたいものだ)もワシントンから応援にやって来た。人々は全部一番のティに集まっていた。熱心な〝トーチ″は早くもスタートの用意をしていた。
 ところで〝ヘーグ″(ヘーゲンの略称)は一体どこにいたのか。私はスタートの時刻、十二時三十分を待ってクラブハウスの中を歩きまわっていたのである。そして翌日の新聞は、トップの大見出しにこう書いたウォーター・ヘーゲンが日本の大使を待たした、と」

G・プレーヤーによく似た戸田

 これによってみれば、戸田は今から二五年も以前、あのゲーリー・プレーヤーが生まれたか、生まれないかの時分 -なぜここにゲーリー・プレーヤーを持ち出したかといえば、さだめしご同感の方もあるかと思うけれど、私はこの両者ほどよく似たゴルファーはないと思っている。

 プレーヤーの方が全体にひとまわり大きいけれど、あの人種の中に彼ほどの小男は少ないだろう。戸田も小さい日本人の中でも小さい方だ。
 そして、真黒で剽悼な風貌から身のこなしに至るまで、見れば見るほど、どうしてこうも似ているのかと、びっくりするほどであるのと、一昨年(一九六八年)彼が日本に来て、戸田と一緒に一ラウンドした後で、「もし戸田がもう一〇歳若かったら、彼は日本中のすべてのタイトルを取るだろう」(事実は彼は二〇年も前にそれを取っていたのである)と評したというようなこともあるのでー 既に彼が外国人として初めて征服した、あのマスターズ・トーナメントの行われるオーガスタのコースで、相手もあろうに近代ゴルフの父といわれる大ウォーター・ヘーゲンと試合をしているのである。

 ああ、しかし、これはまた話が横道に外れすぎた。私が書こうと思ったのは、戸田、陳の二人が、この旅から帰った時、これを迎えて『藤ケ谷』で行われたエキシビジョン・マッチを見たときのことだ。
 相手をしたのは誰だったか忘れた。もちろん当時のトップ・プロの中の誰かだった。
 試合はフォア・ボール・マッチだったが、今日と違い、三週間近い航海の疲れもあったのだろう。帰朝組の方が一ダウンか二ダウンで負けてしまったけれど、この試合中に見せた戸田のショウマンシップは、さすがにアメリカ仕込みのもので、われわれを驚かせた。

 たとえば、二五〇ヤードのショート・ホールで、彼はティ・ショットをいきなり隣りのフェアウェイにフックさせた。そしてそれがわざととは気のつかないわれわれ見物人がびっくりしていると、次の一〇〇ヤードほどのアプローチをピタリとピンそばに寄せて、もう一度びっくりさせるというようなことをやってみせた。
 それと、もうひとつ忘れ難いのは、この時の一八番で打った戸田のナンバー2アイアン・ショットだ。それは左側のラフからちょうどスタイミ一になっている二、三本の松の大木をフックでかわして、見事二〇〇ヤード向こうのグリーンへ飛んで行った。
 いうなれば、戸田はこの頃から彼の全盛時代に入ったと思われるのであるが……、それでも彼はまだ、なかなか宮本には勝てなかった -彼が完全に宮本を制したのは、一九三九年の秋、川奈での日本プロの決勝三六ホールで宮本を圧勝したときで、それまでに、彼はもう三年の歳月を待たなければならなかったのである。

最大の宮本、最強の戸田、最もうまい寅さん

 一昨年の秋であったか、霞ケ開で催されたあるスポーツ新聞社の招待試合で、二〇年ぶりで戸田に逢ったとき、談たまたまこの試合のことに及んだ。そのとき彼はいった。「私なんか、とうてい宮本さんに勝てるようなゴルフではなかったのです。ただファイトで勝負しただけです」と。
 謙遜からだったろうか? しかし案外それは彼の本音だったのではないだろうか。
 私は確信している。日本が今までに生んだ最大のゴルファーは宮本留吉であり、最強のゴルファーは戸田藤一郎であり、そして最もうまいゴルファーは中村寅吉である、と。
 それにしても、そういうこと ー宮本が自分よりも偉大なゴルファーであるということー を卒直に認め、口外し得る戸田は見上げたものだと、私はそのとき思わず彼の顔を見返したものであった。

観戦は弁当持参で

 なおこの時、私は三〇年にわたる私のゴルフ観戦中でも、楽しいといったら一番といってもよいかもしれない半ラウンドを、観る機会に恵まれたのである。
 私はたしか昼から見に出かけたのだったと思う。試合はもう三六ホールス中の半分すんでいて、中村と林と戸田の三人が、西コースの一番をスタートするところだった。
 これはまさに願ってもない組合わせではないか。しかも前半の東コースで、陳清波がずば抜けてよく、彼ら三人にはもう優勝のチャンスはなかったのである。
 だから彼らはまったく気軽にプレーでき、われわれ観戦者も(といってもそれはごく少数、おそらく五人以上ではなかったように思う。大部分の見物は優勝のチャンス多い陳についていた)しごく気楽に観戦することができた。そして本当にいいゴルフを観ることのできるのも、こういう時なのだ。

 私は皆さんに申しあげたい。ゴルフを観戦するというのは勝負を見るのではない。もちろん、勝負を見るということはスリルがあって、見るに値しないことではない。
 しかし少なくとも、ゴルフを見る場合、勝負よりも、もっともっと見るに値するものが他にたくさんある。たとえば、ファイン・ショットを見るのも楽しいものだし、一人のプレーヤーが、ちょっとした一つのつまづきから、どういう風に崩れていったか、また他の一人のプレーヤーが、ほんのちょっとしたきっかけから、いかに立ち直っていったかというような人間の心の動きなどを見ていると、そこには人生そのものをみるような、深い味わいさえ見出すことができるのである。
 だから本当をいうと、血まなこになってグリーンを取りかこむというような習慣--それは日本だけのことではないらしいー は、どんなものかと思っている。スリルはあるかも知れないけれど、パットなんていうものは誰がやったって五十歩、百歩、その結果を見るためにあんな騒ぎをするなんて、馬鹿気ているという気もしないではない。

 それよりもむしろ、人のあまりいないようなホールの一隅に立ち、あるいは腰をおろして、春ならばラフに咲く名も無き草花の色を愛で、秋なれば空に流れる雲を眺めながら、そしてもしできることなら、持参の握りめしでも食べながら(この弁当持参ということはゴルフ観戦の上では、なかなか大切なことなのである。
 というのは、食堂で食事などとっていたら、その間にどれだけのプレーを見落すかしれないのだから)思い思いの姿態、表情で、次から次へと目の前を過ぎゆく数々のプレーヤーの姿を迎えたり送ったりしているような中にこそ、ゴルフ観戦の大きな楽しみがあるのである。
 なお、もしお手許にあったら、双眼鏡は持参されるといい。これはゴルフを見るには非常な威力を発揮する。これに反して写真機は絶対に持って行かないようにしていただきたい。
 心なきアマチュア写真家のシャッターの音で破滅させられたショットを、私はいくつ見てきたことだろう。写真撮影はすべからくプロに任すべきだ。主催者に望めば、カナダ・カップの時のように、あるいは先日の川奈における世界アマのときのごとく、すべての試合において、無許可の写真撮影は禁止すべきだ。

 それから、これもよく見かける光景であるが、観戦中、自分の知っているプロたちに何かと話しかけている人があるが、あれは厳に憤しむべきことだ。試合はプロにとっては生きるか死ぬかの真剣勝負だ。それを見るには見るだけの作法があるはずだ。私は試合中には、いくら親しいプロにでも、こちらから声をかけるなどということはおろか、できたらこちらのいることすら気づかれないように注意を払っている。
 ところで、私がこの観戦中の慎しみを一度だけ破ったことがある。その相手は戸田で、場所は前に述べた『藤ヶ谷』のエキシビジョンから二年後に、藤沢カントリー・クラブで行われた日本オープンの時だったが、そのことについては次ぎということにしよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?