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結婚願望がなかった私が、結婚を選んだひとつの理由。

今日から正期産。いつ生まれてもおかしくないっていうけど、まるで時限爆弾、待ったなし。爆発するときは鼻からスイカと思うとなんだか緊張してきた。どれくらい痛いのだろうか…なのにこの期に及んで何の実感もわかないのがむしろ驚く。あと2,3週間で新しい人がお腹から出てくるなんて。同じ境遇を当事者としてそわそわしたり、やきもきできる夫が側にいないからだろうか。

昨年の11月に夫が海外駐在になりこの5ヵ月間、つまり妊娠期間の約半分を夫不在で過ごしてきた。彼は胎動も知らないまま海を渡ってしまった。そんなんで子どもに会ったとき、果たして実感がわくというのか?毎日、片時も離れずに過ごしている私ですら、もうすぐ自分の体内から分離される別の個体をまだよく知らない。

とにかく揺らぐ世間とうまく向き合いながら、今は子が無事に生まれてくることを祈るばかり。意外と仕事を離れた反動や、産前うつになることもなく、暗い気持ちではない。ぼーーーっと考え事をし、本を読み、京都のうまい飯を一人で食って気楽な毎日を時限爆弾を抱えながら過ごしている。

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憧れのFarmoon

里帰りしたら絶対行きたいと思っていた場所があった。
左京区北白川にある”Farmoon” 料理家の船越雅代さんが開かれたという、飲食店ともカフェとも言い難い独特の空間。フードラボ/フードスタジオ/フードレジデンシーとも表現されているその場所は、目に映るものすべてに料理家の意図がかよっていて、洗練されたあこがれの場所だった。

作業台に流し、火元、パントリー、食器棚に至るまで、炊事場のすべてが食卓から見える。東京で暮らしていた時にサルボ恭子さんのアトリエにも通っていたがやっぱり、料理家の道具やキッチンを見るのは胸が高鳴る。手のひらを明かす、とまでは言えないが憧れの料理家の台所を、料理がまさに生み出されるその場所を覗き見られるなんて。

私の夢は、料理家の思想が息づくようなキッチンを手に入れることだ。
実家のキッチンでも、仮住まいのキッチンでもない。マイホームよりもキッチン。それならむしろキッチンで暮らしたらいいやん、くらいの気持ちで自分の城が欲しい。世界に一つだけの自分だけのキッチン。

結婚願望のない女が結婚願望のある男と出会うとき

話は変わるが、物心ついたころから、家庭環境の歪さもあってか”家庭に自分の幸せを期待しない”という考えを持つようになった。誰か頼りの幸せ(≒生活の保障)を手に入れようとするよりも、ひとりよがりでも自力で安全保障を確立させたいと考えていた。男に頼らない生活で満足したい、だから夫はいらない。自分で自分を食わせられるぶん十分に稼ぎ、自分のためだけに時間もお金も使う。子どももいらない。自分で自分を食わしていければ、何も怖くはない。誰かに頼ろうとするから、誰かに甘えようという気持ちがあるから、いつか女は痛い目を見るんだと思っていた。

結婚願望がないとはいえ人となりに恋人もいたし、手料理をふるまうこともあった。恋人が美味しいと言って手料理を食べてくれるのはうれしかったけど、自分のために食べたいものを料理することも多い。なので私の料理は”花嫁修業”みたいな陳腐なもんじゃない。私が料理好きなのは、いい奥さんになるためではない。自分にうまい飯を食わせ続けるためだ。もちろん作ったごはんで恋人や家族や親友に、喜んでもらえるのは素直に嬉しい。だけど私にとって『いい奥さんになるね』は誉め言葉でも何でもない。私渾身の料理を、そんな安いおべんちゃらで腐らせる気なのか?(とまではいわないもそれくらいの気持ちだって例えだよぅ…)

今の夫が恋人だったころ、例にもれず手料理をふるまい続けた。

Tinderで知り合った当時、彼はまだ就職直前の京都の大学4回生、私は社会人2年目を迎えようとする名古屋のサラリーマンだった。年下の男をわざわざ名古屋まで遣わすという罪悪感もあり、毎度名古屋駅の改札で見送るときに新幹線片道代の5000円をポケットにねじ込んでいた。田舎のおかんか?と思われるだろうが、5000円をねじ込むのは年下だろうが男だろうがフェアでいたいからだった。出会いがTinder、東京の総合商社の内定を持つ、年下の大学生ということもあり、会社の男性の同僚からは『そんなことするとつけあがる!』『絶対遊ばれてる!』『とにかくやめとけ!』みたいな決まったセリフを吐くので、私だって結婚願望があるわけでもなし遊んでるのに、何で妙齢の女だからって遊ばれてる前提なワケ??と思った。

モノのわかる男

だが、私も遊びだと付き合い始めたこの男、大変味のわかる男だったのだ。
後にも先にも、私の作った料理を正当に評価してくれたただ一人の男。

食の好みが合う、というのは付き合う異性に求めるひとつの条件によくある例だがその男は違う。”好みが合う”というより舌の感覚が瓜二つ。たぶん味覚芽レベルでよく似ているのである。美味しい物を美味しく感じる描写がまったくその通りだった。例えるなら体の相性が抜群にいい人に出会ったような稀有さ。しらんけど。

ラーメンの汁に浸った海苔、香港で食べた青菜の何ともいい塩梅の火加減、あさりうどんの貝出汁の繊細さ、クリームソースが滴るサボイキャベツの葉脈。美味しいと感じるものがピタとはまる。そんな人今まで誰もいなかった。その男は、せっせと東京から名古屋に通いめしを食った。そして私が作った料理を美味しいときは目を見張って一言”おいしい”というが、漠然としたおいしさのときは単調に”おいしいおいしい”とこぼす。

付き合いたての頃の話だ。まじめに親子丼を作ったとき、”なあ この親子丼点?”と聞けば、”73点かな”とお世辞のひとかけらもない回答で芯を食ってきた。シンプルにデリカシーのない男だった。ただ正当な評価だと思った。確かに卵全体に火が入りすぎていて、給食に出てくる一様に火の通ったやわらかめの炒り卵丼だった。”こういうのは正直に言わないとタメになんないじゃん!伸びしろ、あると思います”と男はいけしゃあしゃあと続けた。

ただある日の朝食に作った、絹さやとかきたまの味噌汁を一口飲んだその男は『絹さやの甘みが出汁に溶け込んでいておいしいね』といった。これが後々、自分が結婚を決めた大きな一言になったと今なら思える。
『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 の俵万智じゃあるまいが、それはまさに絹さやの味噌汁記念日。それは私にとって大きな日で、ちゃんとモノのわかる人だと確信した日だった。

結婚=食卓を囲うという大義名分

Tinderで出会い、出会ったその日に”結婚したい”と言ってきたややこしい男だった。何を思ってそういえる?何を知ってそういう願望が沸く?結婚願望がなかった私にとっては恐怖でしかなかったが、一緒にごはんを食べ続けたその数か月後に、『私は自分のキッチンが欲しい、それを手伝ってくれるなら結婚してもいいかもしれない』というと、二つ返事で『いいよ』と言ってくれた。

その後まともなプロポーズの言葉もなく結婚に至った私にとって、絹さやの味噌汁はプロポーズ以上の意味がある。もしこれから何十年も一緒に食卓を囲うのであればこの人ならいい。みそ汁に溶け込んだ『絹さやの甘み』に気づいてくれた人。それを世では平たく”価値観の合う人”というのだけれど。毎日ジャンクフードを食べ、腹が膨れればそれでいいという、食に意義を問わず、たべることに意味を見出さそうとしない人に美味しいと言われるのと、絹さやの甘みをわかる人に美味しいといわれるのとでは、やはり違うのである。

この男のために飯を作り続ける人生には、意味があるなと思えた。それが結婚願望がなかった私が結婚を選んだ一つの理由だ。男と女が共に”食卓を囲う”という大義名分が腑に落ちたから、私は結婚を選ぶことができたんだと思う。



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