『運命ではなく(SORSTALANSÁG)』

著書名:『運命ではなく(SORSTALANSÁG)』

著者名:ケルテース・イムレ(Kertész Imre)
1929年ハンガリーのブダペスト生まれ。第二次世界大戦中、アウシュヴィッツなどで収容所生活を送る。最初の作品である本書により、ドイツ、フランス、アメリカを中心に高い評価を受ける。他の作品として、『挫折』(1988)、『生まれなかった子のためのカディシュ』(1990)などがある。ニーチェやカネッティなどドイツ文学の翻訳も手がける。2002年度ノーベル文学賞受賞。 

<あらすじ>
ストーリーは少年の父親が強制労働に招集されたことで始まる。彼は継母と一緒に住み、チェペルにある軍需工場で勤労奉仕をして暮らしていた。ある日、ジョルジュと彼の友達は警察官にバスから降ろされ、彼らはある煉瓦工場に連れて行かれた。そして、ゲットーに捕らえられた他のユダヤ人と共に列車に乗せられ、ドイツにあるアウシュヴィッツ強制収容所に移送された。収容所でジョルジュと多数の仲間達は労働可能と判定され、彼らはその理由で処刑されなかった。その後、彼らはブーヘンヴァルト強制収容所に送られた。そして、そこにある軍需工場で明け方から夜遅くまで強制的に働かされた。過酷な強制労働と栄養不足でジョルジュの体は弱くなっていった。その後、移送された別の小さな強制収容所で大病になり、ブーヘンヴァルトの囚人病院に送られた。ジョルジュはそこで死を待ち続けていたが、病状の回復途中で強制収容所が解放されたことを知る。コヴェシュ・ジョルジュはすっかり様変わりしたブダペストに帰る。父親が死に、継母が再婚しており、わが家に知らない家族が引っ越していた。過酷な経験をした主人公は日常的生活に対処することができない。住む場所もなく、新しい生活を始めようとする。(ウィキペディア:運命ではなく 参照)

 

あらすじは自分が改めて書くと、ごちゃごちゃになりそうなって上手く整理できるか不安だったのでウィキペディアさんから頂戴しました。

ケルテース・イムレという作家さんは、ノーベル文学賞も受賞したほど著名な方ですね。ただ日本での著名度はあまり高く無いのでしょうか?
自分の周りの韓国人の友人たちあまり知らず、韓国でもそれほど知られてないようです。(実際、2002年度受賞するまで母国であるハンガリーではほとんど知られてなかったそうです。。。)

 この小説を読みながら感じたこと、気になったことを気軽に書いていきたいと思います。収容所生活の悲惨さに関しては、自分も消化しきれてないのでその部分は割愛します。

 興味深いのは、まずこの小説のタイトルです。

韓国:운명(運命)

日本:運命ではなく

というふうに韓国ではタイトルが『運命』、一方日本語の翻訳本のタイトルだと『運命ではなく』と完全に意味が真逆。。。

(ちなみに英語版は”Fateless”、調べたところ映画もあるみたいです。)

 次に、主人公にとって父親とはどういう存在なのか?というのを考えさせられました。小説のはじめは、父親が労働キャンプに送られるところから始まります。ただ、その後の主人公の収容所生活のなかで家族に対する、とくに父親に対する感情の告白や回想などがほとんどありませんでした。物語の後半で父親が労働キャンプに出かける時の場面を回想しながら、

まるで僕のお父さんのお葬式にいるみたいだった。- p.275

と語っています。つまり、父親が労働キャンプに行く時点で主人公の中では父親が既に亡くなることを覚悟していたのではなかったのかなぁと思います。父親との離別、そして(偶然ともいえる)家族との離別により主人公はひとりの大人として成長し始めたのだと思います。 
 

本格的に、小説のタイトルにもなっている”運命”について考えてみたいと思います。”運命”ってなに?という問いにニーチェっぽく答えると、”たった一度の偶然を必然と受け入れること”みたいな感じでしょうか。。

(運命もしくは運命愛(amor fati)に関しては、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ)を読むといいかもしれません!)

あそこでの体験は何かの間違いだった、ユダヤ人であることは、僕にとってまったくの偶然で、脱線だとか、あるいは本当は何も起きなかったんじゃないかといってかたづけられるのには、もう今となっては我慢できないのだ。- P.273

 

彼は自分の経験が偶然であったと考えることに対して我慢ならないと言っています。さらに、主人公は「当然だけど。」という言葉が口癖です。まるで偶然でもあることに対して、当然こうなったんだといわんばかりに自分を納得させて運命として受け入れてるように感じました。 

そして小説のクライマックスで主人公が放った言葉。

どうして認めようとしないのだろうか、もしすべてが運命でしかないなら、自由などありえない、その逆に、もし自由というものがあるなら、運命はないのだ、ということを。つまり、と言って、僕は立ち上がり、息継ぎをするために間を置いて、つまり、運命とは僕たち自身なのだ、と僕は言った。- P.274

  主人公は、自分自身が与えられた運命を最後まで生きたと自負しています。

最後に、彼は「最後まで生きた」と過去の出来事として言っているということは、彼の運命的な人生は終わったのでしょうか?実際小説では、彼がその後どのように生きていくのかについては言及されていません。ただ、これからの人生をかれは『運命ではなく』生きて行くことを望んでいるのではないのかなぁと思いました。まるで幸福な偶然に出会い人生を歩んで行く、そのような未来を夢見ているのでないのかなぁと個人的には思いました。

(主人公が新聞記者と出会った時に出てきた”幸運な偶然”という言葉が印象深かったです。それまで主人公が歩んできた収容所での生活は”不運な必然”だったのかなぁと考えてしまいました。)

日本版の『運命ではなく』はこれからの人生、韓国版の『運命』は、かれの収容所での生活にたいする彼の捉え方をよく表してるのではないかなと思い、同時にそれならこのような対照的なタイトルにも納得できました。

 この文章に関しては超個人的な感想ですし、読み返しなしで文章に書き起こしてるので、小説を読んでいくと自分の考えと相反する部分が見つかるかもしれません。

さらに、著者がどのような意図でタイトルをつけ、各言語に訳されているのかに関しては正解を知りえないので、勝手な自分の想像として書きました。一つの考えとして読んでもらえるといいと思います。

もみじ

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