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#5 やっと、諦める、明らめる。《苦悩編》
前回投稿↓
前回に書いたような、
「私が私を幸せにする」
「いなくても生きていけるけれど、
いたらもっと楽しい」
「自分の感情をタイミングよく&うまく表現する」
という私らしい望みを大切にしていきたい。
これを踏まえた上で、
交際中の苦悩と別れた直後について整理していきたいと思う。
✳︎このnoteは、大好きな彼に別れを告げるしかなかったことに後悔した女子大生が、気持ちの整理がついたこのタイミングで振り返りをするnoteです!
1人の人間の恋愛訓を読むような気持ちで読んでいただけるのがベストと思いまーす🙌
苦労の年明け、2023。
そして、年が明けた今は少し、
怖気付いてもいる。
なぜなら私の2022年は、
私1人では生き抜けなかったと感じるから。
年明けの私は完全に、
自分の人生を生きることから逃げようとしていました。
もちろん人は、人の力を借りてしか生きてはいけません。
だけど、だからって「私一人じゃ何もできないから…」と自信喪失するのはお門違いでした。
(こんなことよく公の場に吐露したなと、今少し呆れ返りました😓相手が見たらショックだったと思います。)
他者に感謝することは大切ですが、その時に自分を過小評価する必要はありません。
だって、
私の人生は"私が"生きていくのだから。
他の誰に"代わりに"歩ませてはならない。
私はこの時、自分を過小評価しすぎているのにそれを盛り返すだけのエネルギーがありませんでした。
極度のストレスにさらされ、ご飯もろくに食べれておらず、寝る前に涙する日もあった気がする。
この時の私に必要だったのは、
距離を置いて自分の好きなことをしたり、
いっぱい寝たり、
会いたい人・大切にしてくれる人と積極的に話したりして、
他者を通じて世界を信じたり、
それを踏まえて自信を付け直すことだったのではないかと感じています。
オーナーシップ、放棄。
この間違いのない事実と、
「自分の人生の舵を自分で取ること」の重責に、
勝手に苛まれそうになっている。
1人乗りの船に仲間を連れ込んだとき、
窮屈な鬱陶しさの中に「温かみ」を感じ、
ポツンと1人残されたときの「寒さ」に怯え、
せっかく握った舵を放り出しそうになる。
痛い思いをしてでも、船を大きく改築して、
誰でも乗り込めるようにしそうになる。
それをなんとか踏みとどまるのは、
そうして改めた船の「所有権」は、舵は、
果たして私に残るのだろうか。
そういう
「不安」と「恐怖」。
握り続ける「覚悟」が
「傲慢」になってやいないかと、
勝手に自信喪失中。
自分で人生の舵をとるのは、
紛れもない自分のためです。
当時の私は、
「誰かのために」「自分らしく」
生きようとしているという矛盾に気づいていなかったのだと思います。(なんちゅう難しいことしてるんや…結局それは「誰かのために用意した自分」なのでは??)
もっと自分の感情に正直になったり、
それをうまく伝える術を学んでいきたい
今はそう強く思っています😌
読み手の気持ち
このあとには「1人が気楽だったと思ってしまいそうでこわい…」みたいなこと書いてるんですけど、
「そんなことアカウントで書くなよ…」
と今では思います…
そう思ったのが本心とは言え、
本人に正しく伝わらないフォーマットで書くんじゃないよ…とちょっと叱りたい。
読み手の気持ちになって書くことが、私にはまだまだできていない
ということがわかり、反省。
今後について検討せねばならないでしょう。
Iメッセージを意識したり?そもそも、"見え過ぎ"もよくない。
改めて、恋愛においてSNSはめちゃくちゃ厄介であり、LINEだけで充分だと今では感じます。
身近な事柄を書くとなると、身近な人の話をせざるを得なくなるけれど、文面には必ず齟齬が出ることを覚えておかねばなりませんね。
自分なんかちっぽけなこと。
ちっぽけで上等じゃないか。
そんなちっぽけな自分すらも認められるほどの包容エネルギー(自己受容)は、当時の私にはなかった…。食べて温かくして寝ないと。
ちっぽけでも、
自分らしく、自分の人生を生きていく。
その上で、大切にし合える人たちとの関係を大切にしていく。
この両立ができるようになったのは、
実に半年後でしたね…(2023.06.07現在)
変わりゆく私。報連相。
「個が調和することの心地よさ」を、
久しぶりに実感しました。
変化球の連続で、繰り出す球を
もっと見たくなる気持ち。
一歩踏み出したばかりで
方向はまだ定まってませんが、
私は密かに、この春を
実りある春にしようと企んでいます。
このころ、新しい友だちが増えました。
環境が変わったわけですね。
なので、この頃の私はとっくに
慢性的で病的な抑うつ状態からは抜け出せていたのだと思います。
新しい私になっていた。
私が、変わっていっていた。
こんな些細な変化でさえも共有できるようなコミュニケーションを彼と試みたかったなぁ、と。
うんと遠くに行ってしまった今、そんなふうに考えます。
変わりゆく2人の人間が並んで歩くために必要なのは、「こんなふうに変わったんだよね」と伝えられる、
言語化して報告できる力なのかもしれません。
やっぱり言葉がないと。
行動で示さなければとは言え、
なしではやっていけない。
自暴自棄、2月。
そもそも「自分を肯定するかしないかを選択できない」って、果たして良い状態なのでしょうか。そこに悩み考える余地は、許されないのでしょうか。
旅行先での日記にこんなこと書いてました。
この頃の私は、本当の自己肯定について知らなかったんですよねぇ。
自己信頼、自己肯定、アサーティブネス。
ダメな嫌いな自分でも「それが自分」と
一旦受け止めること。
ここを頭ごなしに否定するから、傷つくのを恐れて身動き取れなくなってしまっていました。
「そんなんではダメだ」と言われるか、
「それでもいいけど、こっちのがよくない?」と言われるか。
どっちの方がより心地よく、
より励まされるかは明確でしょう。
自信がなくなっていたからかもしれませんが、私は自分に対してもアサーティブになれていなかったのだなぁと感じました。
不思議なことに、相手の前では非主張的になり、自分に対しては攻撃的になっていました。
のび太か、ジャイアンか。
極端すぎる…
ドラえもんかしずかちゃんで行こう。
とにかく、私たちは「自己肯定感がずっと高い状態などない」ということをまずは受け止め、
「自己肯定感が低い自分の存在を確認する」ことからまず始めるべきなのではないか。
自己肯定感を高めたいと願うならば。
そう思うわけです。
そして、
「ダメな自分にOKを出すこと」、
「自分の自己肯定感が下がっていることを認め、それを拒絶しないこと」が
少しでも自分を信じ、励まし、幸せになるのに必要なのではないか。
当時の自分は、抑うつから抜け出し始めていたとはいえまだまだ強いストレス環境下にあった(家族問題)ため、すぐには行動に落とし込めなかったようです。
けれど、実に4ヶ月ほどの間で、頭ごなしに攻撃的に自分に接することは激減した気がします。自己肯定感が、上がった。
それは多分、自分を受け入れることが少しずつできるようになってきたから。
レクイエム、3月。
どれも一つ一つ大事な、
抱いた本人にしか抱けない、
唯一無二の感情。
抱いた本人に無視され捨てられた感情は、
一体誰が拾ってくれるの?
あなただけが抱いて捨てたその感情は、
あなたにしか拾えないんじゃないかな。
この一年は、私にとってそういう感情の取り扱い方を真摯に考えた、貴重な一年でした。
なんとここで、ついに私は心のオーナーシップに気づいたみたいなんですねぇ。
このままではいけない、と。
自己信頼のための自己受容
自己否定ばかりで自信喪失の自己嫌悪、自暴自棄から抜け出せなかったのは、
ネガティヴな感情の存在は認められるようになったものの、
それを受け入れうまく利用したり表現する力に欠けていた。
真面目ちゃんだったので、
「辛いと思うなんていけないんだあああ!」
と思っていたのですが、あまりに辛い出来事があったおかげで、
「そんなことはない、辛いと思う時もある。(けどどう扱えばいいのかはわからない。)」
にステップアップはしていた。
しかしそれでもまだ、自分の感情を自分のものとしては考えられていなかった。
性教育について学んだおかげで、
「私の身体は私のもの。私が責任をもって自由に決める。」という揺るぎない価値観は獲得できていたが、
「私の感情は、他でもない私のもの」という意識はなく、どっかから降って湧くもんだから扱い方に困って当然だぐらいに思っていた。
心の所有権!どっか行ってもうてるぅ!!泣
誰にも譲ったあかんのよお!!!涙
けれど、別れて自分磨きに注力し、上手い扱い方や表現の仕方があることを知り、最近になってやっとそれが実践に生きてきた。
「(辛い…。)
そうか、今辛いと思ってるんだ。
じゃあ、今はいっぱい泣きな。
美味しいもん食べる?
お風呂入ってきたら?
ゆっくり寝てから考えよう、
その方がきっといいアイデア浮かぶよ。」
と、ネガティヴな自分に攻撃的になることが減った。
これは、私が本格的に対人療法について学び始めたのもあるだろうし、
アサーションを知ってコミュニケーションに奥行きが出たこともあると思う。
自己信頼
私はずっと、自分が負っている傷を
「見ていなければならない」
と考えていたことに気づく。
自己信頼のなさにも気づいたんですなぁ。
自分が幸せになる力を、あまり信用できていなかったみたいです。
ただ、「自信のなさ」というと
こう、他者ありきの自信のように勘違いしてしまって、当時の私はうまくできなかった(いろいろと)。
自分を信頼する。
自分を信じる。
似てるけど、ちょっと違う。
後者は精神論な感じがするのかな。
前者は、いろんな知恵や技術や経験に基づいてるというか。
自己信頼に必要なのは、
自己理解
表現するためにもまず、自分自身を知る。何を感じ、何を考え、何を伝えたいかを意識化する。(私はまだまだ無意識😓)それだけでなく、自分の肯定的側面も否定的側面も理解する。これが偏っていると、表現にも偏りが出てしまう。自己受容
これは先程の「自己信頼のための自己受容」に書いた通り。自分に思いやりを持ち、自分に寛容に接することができるようになると、自ずと他者との関わりにも滲み出てくる👍自尊心
「私を傷つけさせない、私が私を大切にする」という気持ち。そしてこれに完成はなく、育て続けるもの。しっかりと根を張った自尊心を育てようね🌳
なるほどなぁ。
1.は得意なつもりでいたけど、
2.がなかったから歪んだ理解になってしまい、
素直な気持ちを無視し続けてしまっていた。
3.も、まだまだ育成中で完成はないことに気づいてなかったなぁ。
2.に気づいた今は、1.がより楽しくなって優しくなったし、3.もより成長させたくなってる!生涯学習だな〜。完成などな〜い。
追記
ネガティヴ・ケイパビリティ
当時の私はこの自己嫌悪から抜け出せない状況を「耐え」で乗り切ろうとしていたようです。さすが元・体育会系…。
これからは、守りや待ちじゃなくて、
攻めや関わりによって困難を乗り越える方法を体得していきたいね😌
オーナーシップ=私の所有権
当時私は、彼に言われてあとで嬉し泣きした言葉がある。(これも「あとで」なのだが…もっと自分の感情に素直でありたいなぁ。)
「幸は、誰のものでもないよ。」
この言葉は一生涯の宝になると確信した一方で、もう一歩飲み込みが足りなかったと、今なら気づく。
幸は、誰のものでもない。
幸は、他でもない幸のもの。
私は、他でもない私のもの。
私の体も、私のもの。
私の心も、私のもの。
私の感情も、私のもの。
私が、
私のために、
"私の責任"を、
私の"所有権"を持つこと。
これが"オーナーシップ"。
ここまで来るには3ヶ月かかったけれど、
就活の面接で
「自分の人生のオーナーであり続けたい」と
自信持って話せるくらいにはなったな😌
私は、誰のものでもない。
それはつまり、自由を意味する。
私は、他でもない私のものである。
それはつまり、責任を意味する。
引き続きこの調子で!オーナーシップを学び続けよーう💪🔥
次回は冷却期間編!
magazineから全部読めます🙌
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