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卑弥呼伝説を科学する:補足

前回の卑弥呼伝説の補足です。

皆既日食が昼間に起こった確率が高いため、卑弥呼率いる邪馬台国は(畿内)でなく九州説が有望、
という話です。

ただ、本文にも注記しましたが、これだけで判別するのはさすがに無理があります。(かつ、出雲説などほかの案もなくはないです)

ということで、ほかの論点も補足しておきます。要はこれらの確からしさによる総合点によっていつかは軍配が上がる、のかもしれません。
ここは通常の自然科学と違って検証ができないのがもどかしいところです。

ちなみに、2者択一、というわけでもなく、
「九州から畿内に遷移した」
という説もあり、個人的にはこちらを支持しています。(以下、どうしてもそれに有利な説が多めです。。。人間なのでご勘弁)

まず、何から考えるかですが、元々この論争の大きなよりどころは当時三国(いわゆる三国志ですね☺)の1つである魏が290年に記した「魏志倭人伝」で、わずか2千字程度の記述です。

史書にあるということは、少なくとも魏との人的・物的交流があったわけですが、そもそも当時の技術で中国へ畿内から日本海を通じて渡るのが厳しい、北九州のほうが合理的、というのが頭に浮かぶわけです。

前回紹介した記事の出所本に、それについて考察があったので参考にしました。この本、ほかの説の考察も科学的でとても面白くお勧めです☺

上記書籍でも紹介されていますが、過去に畿内(大阪)から韓国へ渡航実験が行われました。
1989年に、5世紀につくられた古墳内の船を模した「なみはやプロジェクト」と呼ばれます。

結論だけ書くと、渡航には「一応」成功しました。

が、上記書籍によると「大半がエンジン付きの船に曳航(えいこう)、つまり現代技術で引っ張られた」そうです。

その後に、中間地点にあたる出雲(島根県西部)で、当時の技術力を想像して丸太船で渡航計画が実行されましたが、転覆して失敗という結論です。

つまり、全否定ではできませんが、大陸に渡るには北九州以外ではリスクが高すぎる、ということです。

ただ、これも単に北九州を港だけの機能だ、とすればよいだけです。(陸路の移動も大変ですが・・・)

次の論点が、出土された鉄器数が圧倒的に九州が多い、という点です。1つ公開サイトを引用します。

出所:考古学DB「魏志倭人伝に記されているもののデータ」(画像クリックでSourceへ)

つまり、北九州内で鉄器を使った社会生活が相対的に活発だったのは確からしく、魏志倭人伝でも「鉄の鏃(やじり)」との記載があり、畿内説の否定材料に使われます。

以上が北九州説を支持したい材料ですが、今度は別の出土数から話が変わってきます・・・。

同サイトに4世紀以降に作られた「古墳」分布が掲載されており、ここでは畿内が圧倒的に多くなる、という奇妙な事実が分かります。

出所:上記同サイト

古墳は、定説では有力者の権威を表しており、当時の最大連合国であった邪馬台国のトップ卑弥呼の墓もこのうちの1つではないかと考えるのは自然なことです。

これらを無理なくストーリー化すると、個人的な意見(説というのはおこがましい・・・)は、こんな感じです。

元々は北九州にあった邪馬台国、敵対国との争いが形勢不利で、リーダー卑弥呼は何とかしたいと悩んでいました。

そこへ237年に「たまたま」皆既日食が起こります。

民は動揺しますが、卑弥呼はこのピンチをチャンスに生かし(自身の責任問題回避も込みで)、「これは神のお告げである」とこの不吉な地を去るよう民を誘導し、畿内への遷都を実行します。(敵からも正当に逃げられます)

そして卑弥呼は(人為的な手段でなく)その遷都先で自然に死んだ、というストーリーラインです。

その考えにいたる材料が大きく2つあります。

1.神話との整合性
いきなり非科学的なタイトルですが、神話はある程度歴史的な史実をもとに作られた可能性は大いにあります。

子供のころに読んだ「ノアの箱舟」も、近い存在があるかもと研究が進んでいます。(さすがに地球全体でなく局所的な現象だと思いますが)

卑弥呼をモデルとした神話は、「邪馬台国後に急に現れた大和朝廷が編纂した」古事記に掲載された「天の岩戸物語」ではないかと想像しています。(タイトル画像も下記内より引用)

歴史書は、治世者の都合よく書かれたストーリーであるため、卑弥呼を自分たちの祖先にあたるため神格化した、というわけです。

この物語を簡単に書くと、太陽神である天照大御神(アマテラス)が怒って岩戸に隠れ世界が暗闇に包まれたあとに、楽しい踊りで釣って須佐之男命(スサノオ)が引っ張り戻した、という話です。

まさに話題の「皆既日食」を連想させるわかりやすい設定ですね。

このアマテラスが卑弥呼で、引き戻したスサノオがその後継者(男の王)である、という(強引なことは承知の・・・)アナロジーです。

実際には、遷都の途中で下記のようなことがおこったのではないかと想像します。

東に移動する途中に訪れた出雲地方で、後継者(男の王で魏志倭人伝でも記載)が反乱を起こします。
卑弥呼はなんとか反乱は鎮めて彼を現地に幽閉したものの、彼の支持者も多いため、この地を彼に統治させることにしました。

これが「出雲大社」の原型です。

余談ですが、それに相当するスサノオは、当初荒くれものですが、出雲に左遷させらてからは人が代わったかの如く善行を積みヒーローとなります☺(ヤマタノオロチ退治とか。実際出雲は大量に銅剣が発掘されています)

2.卑弥呼の墓

卑弥呼は当時最大の連合国の長です。その権力を維持するにはやはり巨大な墓は重要です。

北九州にはそれにふさわしい古墳がなく、4世紀以降になぜか「急増」した畿内の巨大古墳群の1つであったほうがしっくりきます。
いわずもがな、急増したのは卑弥呼率いる邪馬台国が遷都したから、というロジックです。

その中で卑弥呼の墓候補として、(これは公開情報から比較的納得できる)「箸墓(はしはか)古墳」に期待しています。

この説を唱えたのは100年前に活躍した笠井新也という研究者で、その後も研究者が発展させ、主に下記を根拠としています。(上記Wiki参考)

・この古墳の後円部の直径が長里説を取れば『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致。
・日本でもっとも早い時期(卑弥呼が死んだとされる3世紀中ごろかそれい以降)に築造された最大古墳(300m弱!)であること。

こういう話を聞くと、
「ならさっさとその古墳を徹底的に調べればいいじゃん」
と思うかもしれません。

ところが、この古墳は、第7代孝霊天皇皇女・倭迹迹日百襲姫命の大市墓、つまり「天皇筋の墓」として宮内庁管理下にあり、その許可を得ないと調査できません。

実は、2020年にある研究グループが、対象外のエリアから素粒子放射でリサーチする、という発表が流れました。

いまだにその結果は公開発表されていません。(おこなったかどうかも公開情報では判別できず)

出来れば、宮内庁が立会等の条件付きで探査を許可してほしいところです。

いったん過去に天皇陵と決めてしまった(調べる限り腹落ちする根拠は見つからず・・・)ことが覆ってしまうリスクはありますが、真実を知るためにも、ぜひ勇断してほしいです。

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