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筆記具「鉛筆」の時代とその変化
筆記具と言えば、私は昔から鉛筆になれ親しんできたと告白せねばなるまい。短くなったからといってむやみに捨てることはなかったし、私の生活の中で欠かすことのできぬ、また愛着のある文房具だったからである。
そして鉛筆と言えば、やはり「HB」を好んで使ってきた。小学校時代から今に及んでいる。それ以外は手にすることはなかった。
神戸新聞の令和元年6月の紙面だったか、鉛筆の歴史についての記事を見つけた。
探鳥と野鳥こぼればなし
身近な鳥たちの姿や行動の特徴を知り、自然環境について考えを深める検定、「バードウォッチング検定野鳥コース」(日本野鳥の会主催)が人気で、昨今、野鳥博士が増えているようだ。
私も以前からバードウォッチングを趣味にしており、野鳥に親しんできた。
野鳥観察のメリットはといえば、鳥の鳴き声に耳をそばだて、聞き逃すまいと意志するので集中力が身に付くこと、また木の枝や葉っぱの間に見え隠れする野鳥の姿を追
追憶。私は歴史上の舞台にいた
私が、「海軍飛行予科練習生」の第一期電信兵として久里浜の「横須賀海軍通信学校」に入学したのは、昭和十九年七月十日のことでした。私の個人的な出来事ですが、それは私自身とっては非常に大切な、末永く記念すべき日となったのです。
というのも、親元から離れ、完全に独立した日でもありましたから。
あとになって本を読むようになってからですが、横須賀の通信学校があった久里浜は、日本の歴史にとってとても重要
私のカルシウム健康法
幼少の頃からカルシウム摂取を母親から教え込まれたのは、私の健康にとって現在も良い影響力を保持しています。いま私は九十歳ですが、この年齢になっても歯は自分の歯であるし、いままで歯を折ったこともありません。
カルシウムが直接影響するのは、人体の各組織が形成されつつある時期の子どもたちだそうです。骨が形づくられる乳幼児期や思春期にどれだけ多くのカルシウムを摂取したかで、将来の骨の強靭さはもとより、
私のビタミンC健康法
ノーベル賞受賞者でもあるアメリカの生化学者であり量子力学の専門家、ライナス・ポーリング博士が唱えた、「癌にビタミンCが効く」という説があります。
胡散くさい話に聞こえますが、彼はまぎれもなく重要な科学者として今日もなお評価されており、1954年に化学の分野でノーベル賞を受賞しています。また核実験に反対した運動が認められ、1962年にはノーベル平和賞を受賞しています。さらに世界初の電気自動車の
人のいやがる軍隊に志願してゆく馬鹿もいる ~その時代に生きた少年達の物語~
昭和五年のことである。ところは茨城県は霞ケ浦であった。その茨城の地において、少年達をりっぱな海軍軍人に育て上げることを目的に、或る施設が産声を上げた。――いわゆる予科練と呼ぼれる飛行兵育成のための学校だ。そこで育てられた海軍予科練習生たちは、戦闘機の操縦士、飛行機の整備、通信のそれぞれ三部門での訓練をへて、戦場に巣立っていった。
これは新たな海軍の「志願制度」が発足した結果だった。いわば予科
読書のチカラを信じ、実践せよ
現在、電子書籍の進化にともない、出版業界では紙の本が売れにくくなっているそうだ。紙の本が売れなくなるということは、ネットではなくリアルの本物の本屋さんが弱ってゆくということでもあるのだろう。
ふつうの人間が多種多様な本と出会えるのは、ネットではなくリアル書店での立ち読みであるとわたしは思う。であるならば電子書籍の普及は、本との出会いを妨げる要因の一つにかぞえられるかもしれない。最近、活字離れ
会社の成長と人材の成長について
昭和33年後半から36年にかけて大型景気の時代だった。それ以前の昭和32年の神武景気より、一層好況感があった。これを岩戸景気とよび、マスコミはいろんな角度から宣伝した。
成長とは創造にして発展、そして生成である。市場の生産性は否応にも高まり、社会全体がエネルギーに横溢し、その「元気のよさ」が社員のやる気となって感染していった。
いわば、社会と個人を巻き込むエネルギーが一致し、一つに統一され
人生の転機がやってきた
昭和三十年、西暦でいえば1975年にZ社に入社したが、病気の静養で会社を休んだことは以前に書いた(先にパブ―にて発表した「Z社の面接」、「Z社に入社に伴う思い出話」をご覧ください)。
そろそろ高度経済成長がはじまろうとしていた時期である。その間に会社は、東京・日本橋にある「山本山ビル」から京橋の「守髄(しゅずい)ビル」に移転した(明治屋の向かいにあった守髄ビルは最近、風の噂によると取り壊さ
赴任先の大阪で見たもの、聞いたもの
大阪市の堂島に、毎日新聞社が建てた『毎日会館』というビルがかつてあった。南館と北館があったことを覚えている。
私が働いていたZ社の大阪支店だが、その毎日会館の八階に入居していた。十五坪ほどの事務所に机を並べた。椅子の数は東西に六脚、それから支店長の机が中央にあったので、じつに手狭な事務所であった。
ただ熱意をもって働く者には、事務所の狭さなどどうでもいい話だった。
とにかく立地が最高だった
天国の妻が支えたトマトづくりの実際
トマトづくりはわたしの健康法にして、長寿の秘訣である。畑で土にふれることは、大地からエネルギーをいただいているという謙虚な気持ちになれるし、また新鮮な空気の中で作業をしているとすがすがしくもなる。もちろん体を動かすわけだから、体力づくりにもあるだろう。だが、そもそもの最初からトマトづくりを健康法だと思ってスタートさせたわけではなかった。
妻は逝ってしまったが、生前、便秘に悩まされていた。トマ
Z社の入社に伴う思い出話
親友Kくんから電話があり、採用が決定したので、昭和32年4月から出社するよう連絡があった。
Kくんからは、私の体調を心配しているので十分、健康に留意して勤務に励むよう強い要請もあった。自分としては一日一日、大切にして頑張ると回答した
Kくんは、紹介した手前もあって忠告してくれた。「勤務は厳しいぞ」と言って念を押すことを忘れなかった。さらにその厳しさのせいで体調を崩し、すぐに退職されてはメ
平成26年のトマトづくりについて
毎春のことであるが、JA(農協)兵庫の駐車場を開放して各種野菜の苗を販売するその日は、ゴールデンウイーク前の4月29日の祝日、「昭和の日」ときまっている。わたしは自分の体力と相談しながら苗の本数を決めることにした。わたしは庭にささやかではあるが趣味の菜園をつくり、そこで毎年、トマトを育てて いるのである。
だが、わたしも今年で89歳である。年相応のトマトづくりに励み、無理をしないように思った
追憶『山の絵本』との出会い
人それぞれの生涯に三つの出会いがある、と先達から聞いたことがある。
その一つが、本との出会いである。
本との出会いについて回想する前に、わたしが目下、生を得て暮らしている「この国」について書いておきたい。というのも、この日本の国に生まれていなければ、『山の絵本』という、わたしに多大な影響を与えた奇跡的な本の素晴らしさについて、まったく理解できなかっただろう、と思われるからだ。
さて、