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Z社の面接

 戦後、いくつかの会社を転々としながら自分の一生を託す仕事を私は探していた。友人のK君から一生を託せそうな会社があることを聞いた。どうやらかつての浅野財閥のグループ会社で、その中核をなしていたらしい。浅野財閥とそのグループ会社は、マッカーサーの命じた財閥解体の煽りをうけ、バラバラになった。

 浅野財閥の社長は、浅野総一郎という人物だ。明治・大正気時代にかけて活躍した実業家である。富山県にうまれ、早くから商才に長けた人だったようだ。明治維新の混乱期間のあと、25才で単身で上京。道端で砂糖水を売り歩いたのを皮切りに多彩な事業を考案し、巨利を得た。

 やがて官営セメント工場の政府からの払い下げを受け、浅野セメント会社を設立。これを中核に据え、海軍省に燃料の納入をした。さらにまた多くの有力な会社、銀行に関係して、三井、三菱、住友に劣らぬ新興の財閥、浅野財閥を築き上げたのである。日本における資本主義の発展に力を尽くした偉大な人物として銘記されるべきであろう。

 その今は亡きグループ会社から戦後、四人の人間が集まり、Z社は設立された。

 冒頭の話に戻るが、K君の話によれば機械を扱う専門商社らしい。K君はすでにそのZ社の社員だった。当時はいまだ戦後の復興期で、高度経済成長時代は目前だった。機械は復興、そしてさらなる経済成長のシンボルでもあった。このZ社こそ、規模は大商社と比較すればたしかに中規模ではあるが、戦後の日本経済を支え、またわたしが求めていた「人生を託せる会社」であるように思えたのである。

 それにK君からは即戦力を求めているという話を聞いた。かたやK君はすでにZ社の貿易部の一員として情熱をもって働いているという。さらに即戦力とはどういう意味か、と問いただすと、経理のできる人材をこれから育てて会社の基礎をつくって欲しいのだという。

 K君の情熱にほだされて、ということもあったし、会社からも成長の熱気を感じた。わたしは話を聞いただけで、まだ面接を受けてもいないというのに俄然、やる気が湧いてきた。

 わたしが中央大学を卒業したのは昭和26年の3月のことだ。卒業してからチュースマンハッタン銀行で働いたが、病気にもなったし、戦後の混乱期もあってか、どうにも仕事に身が入らなかった。

 病状は快方にむかっていた。その同じころ、K君もまた、新橋の電線を輸出する会社にいて貿易実務を身につけるべくアルバイトをしていたが、過労のせいで盲腸を手術したりして静養を余儀なくされる、といった過去があった。

 わたしはすでに税務事務所や銀行を円満退社していた。

 K君はといえば、昭和31年4月にすでに貿易実務経験者としてZ社に入社していた。仕事にもやっと馴れた、との知らせをを受けた。

 K君やわたしがつねに議論のテーマとしたのは、「希望に生きてあきらめない」ということだ。人生はやり直しができないというのは事実だが、しかしそのことだけに捕らわれてしまっていては伸びのびと行動できない。いやむしろ何度でも挑戦できるという気概をもって生きた方がすがすがしいではないか!

 たとえ低い給料であっても成長性の高い企業であれば、将来の人生設計が容易になると考えた。

 一方、昭和三十年代に入って日本は力強く驀進をはじめた。樹木にたとえるならば、にわかに幹を伸ばし、枝を広げ、葉をこんもりと繁らせる、いった初夏の様相を呈していた。昭和三十年代の末期には、世界という大森林のなかで眼をみはる大樹として成長しようとしていた。

 経済が成長するにつれ人材不足は深刻になってきた。社会は地方から集団就職で都会にでてくる高卒の少年少女たちを求めた。彼らは「金の卵」とよばれた。もはや「戦後ではない」という言葉もよく聞かれた。ここに日本人の偉大な力がみられた。あの焼け野原は少しずつ家が建ち、ビルが並び、復興していったのである。

 K君の努力が実り、Z社の総務部長が面接したいと昭和32年3月に日時を指定してきた。内心不安を感じながら指定の場所に行った。場所は日本橋通り、海苔屋の老舗、「山本山」であった。

 なぜ「山本山」なのか?

 「山本山」の店舗は表通りに面して広々とした間口で歴史を感じさせた。店舗の左側横の道を入ってゆくと、店舗とは別に「山本山」のビルがあり、そのビルにZ社の事務所が入居しているのだった。

 エレベーターはなく、建物は古かった。トコトコと階段を上がって行った。そしてZ社のK君をたずねた。

 事務所の広さは30坪ほどのワンフロアだった。若干の社員や電話をとっている人がいた。女子社員に案内されたのが狭い応接室だった。面接する人が応接室に入ってきた。互いに自己紹介をして、それから履歴書をみながらの面接がはじまった。面接時間は30分ほどだった。経歴などいっさい聞かれなかった。根掘り葉掘り聞いてきたのは、その頃罹っていた結核の状況で、現在通院しているのか、どの程度の症状なのか、勤務に耐えられるのか、などの健康面での質問が多かった。面接官からは厳しい仕事であると言われたり、病気のことだけ聞かれ、ずいぶん拍子抜けした記憶がある。

 一週間以内に通知するということを告げられ、面接は終了した。緊張のあまり、帰りはフラフラだったことを覚えている。

 翌日、Kくんに電話をし、面接官がわたしの印象について何か語っていないかをたずねたが、一言もなかったそうだ。そのことで私の不安はますます募るばかりであった。

つづく。

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