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追憶。私は歴史上の舞台にいた

 私が、「海軍飛行予科練習生」の第一期電信兵として久里浜の「横須賀海軍通信学校」に入学したのは、昭和十九年七月十日のことでした。私の個人的な出来事ですが、それは私自身とっては非常に大切な、末永く記念すべき日となったのです。
 というのも、親元から離れ、完全に独立した日でもありましたから。

 あとになって本を読むようになってからですが、横須賀の通信学校があった久里浜は、日本の歴史にとってとても重要な役割を果たした場所であることがわかってきました。当時、私は少年でしたので歴史について多くを知りませんでした。

 が、今、記憶をさかのぼるほどに、「自分は過去、歴史上の舞台の上で訓練を受けていたんだ」と思いをあらたにしましたし、大変名誉なことと誇りに感じているのです。

 久里浜が、日本の歴史のターニングポイントになったということを教えてくれた本があります。半藤一利著、「幕末史」(新潮社発行)という書籍がそれです。この本の中に、「米国大統領国書」として書かれている一節があり、そこから少し引用、および要約をしてみたいと思います。

 黒船が来航したことで有名な三浦半島でありますが、今この三浦半島の久里浜海岸の砂浜に「ペリー来航」の記念碑が建てられています。
 これは明治三十四年(1901年)に出来たものだそうで、伊藤博文の揮毫(きごう)でしたためられ、「北米合衆国水師提督伯理(ペリー)上陸記念碑」と漢字で書かれています。当時の幕府官僚に開国を迫り、これを機に世界に門戸を開かせたことを考えあわせれば、感慨もひとしおというものです。

 ちなみに歴史的事実としては、ペリー提督が率いたのはアメリカ東インド艦隊であり、当時、提督の指揮下にあった十隻のうち四隻が横須賀市の沖合、1.5マイルの海に投錨しました。一マイルはおよそ1800メートルになりますから海岸から大体2600ないし2700メートルまでの距離にまで近づいたことになります。艦隊四隻が隊列を組み、睨みを利かせていたわけですからたまったものではありません。当然、国を挙げての大騒ぎとなりました。

 ここら辺で話を私の個人的な出来事に戻しましょう。

 予科練の訓練は激しい戦闘を想定していました。航空機搭乗員の知識はもちろんのこと、陸軍の基本中の基本である「銃」の取り扱いから陸戦と称する演習、軍人に必要なありとあらゆる軍事教練も、この「久里浜」海岸で叩き込まれました。ただ夢中で毎日、追い回され、自然と心身も鍛えれれたように思います。

 とりわけカッター(短艇)は、右舷に6名、左舷に6名が乗り込み、船の中央部に艇長が乗って指揮を執ります。だから総勢13名のチームで大海原へと漕ぎ出て、自分の腕より太い櫂(かい)で重い海面を切ってゆくのです。波間でカッターが上下左右に揺れる中で、舟を操るのはいかにも重労働です。手のひらや指には血豆ができたり、また舟座と呼ばれるところに坐るのですが、尻が擦れるので、あとで歩行困難になるほど痛くなるのでした。ともあれ、全身全霊をかけての全体運動であることに違いありません。海風をまともに受け、気合いと自分の力を海に託し、集中するのです。

 先にも書きましたが、カッターは根性を鍛える上で最適な訓練です。12名のクルーそれぞれの筋力と協調性が一つにまとまらなければ推進力にはならず、前に進むことができません。訓練終了時や、目的とした海域にゴールした時には、「櫂(かい)たて!」の命令があります。これはすなわち猛スピードで走る艇を止めるための、いわばブレーキの役割を果たします。海面を切るようにして垂直に櫂を立てるのです。

 要領の悪い者はいつも怒鳴られ、また一人の不手際は全体責任となります。なので全員が叱責され、罰を与えられることもしばしばでした。ようは各人が組織の足を引っ張ってはいけないと襟をただし、理解することで最大限の力を発揮することができたのです。
 そして予科練とは、国を守るために自ら志願し、熱い血潮をたぎらせた少年たちの集まりでもありました。

 少年だった私には思いもよらぬことでしたが、カッターで訓練していた海は、ペリー提督が率いた艦隊が錨を降ろした海でもあったのです。ここから日本の歴史が変わり、国を守るという意識が生まれました。この海で予科練の一員として青春を過ごした思い出は、私の誇りであり、かけがえのない思い出となっています。

 さて、この辺であらためて半藤一利さんの著作の助けも借りながら、私なりに考えたことを引き続き書いてみたいと思います。

 開国してからの日本がまず最初に意識し、危機感を持ったのは、海の守りということでした。明治期の日本は西欧列強と渡り合うため、海の防衛力を高めることが急務であったのです。そのため天然の良港を四ヶ所選び、そこに軍港を築きました。まず今なお、ありし日の姿を偲ばせてくれる第一海軍区「横須賀」、そして第二海軍区の「呉」、第三海軍区は「佐世保」、第四海軍区は「舞鶴」でした。

 私の予科練の採用通知は、横須賀鎮守府から届きました。その通知には、「海軍飛行予科練習生第一期電信兵」として「土浦海軍航空隊所属、横須賀海軍通信学校に昭和十九年七月十日正午に入隊すべし」とありました。鎮守府の大きな角印までどんと捺印され、威厳を感じたものです。

 さてさて、近代日本についていえば、やはり横須賀製鉄所を取り上げなければなりません。

 ペリー来航のショックは大きく、幕府は横浜などを開港しましたが、独自の防衛力の必要性を痛感し、海軍力の増強を図ったことは前にも書いたとおりです。そのために必要だったのは横須賀製鉄所でした。

 軍艦をつくるためには、近代的な造船所の建設が欠かせません。その計画を立案し、実行に移したのは、後年、テレビのバラエティ番組などで徳川埋蔵金と並んで有名になった小栗上野介(おぐりこうずのすけ)でした。小栗上野介の活躍があったればこそ、日本の近代化の礎がここに築かれたのです。司馬遼太郎は、小栗上野介を「日本近代化の父」と賞賛しました。現在の米海軍横須賀基地内に横須賀製鉄所はあったのです。

 私が訓練を受けた久里浜通信学校は、いま陸上自衛隊の久里浜駐屯地になっており、旧海軍時代の建物には、昔の通信電子機材などを展示した「歴史館」が見学できるようになっています。

 またもやこのあたりで半藤一利さんの著作を参考にしながら、歴史上の人物を取り上げることにしたいと思います。

 やはり幕末といえばこの人物でしょう。勝海舟は咸臨丸(かんりんまる)の艦長として、日本人初の太平洋航海の偉業を成し遂げました。
 安政の大獄が猛威をふるったその翌年、安政七年、西暦でいう1860年に咸臨丸で太平洋を横断しました。乗組員に福沢諭吉がいたことは有名な話です。

 出発する前の話となりますが、海舟は航海の成功を祈願するため、横須賀市東浦賀にある「東叶(ひがしかのう)神社」に詣でています。境内にある井戸水を汲み、水垢離を済ませ、社殿から山道を経て山頂まで登り、奥の院にて座禅を組みました。そうして断食修行に熱心に励んだと伝えられています。最寄り駅は、京浜急行線の浦賀駅です。

 そしてまた、徳田屋という宿があったことも言い添えておかなければなりません。この徳田屋は幕末の志士が集ったことでも有名ですが、ペリーが来航した時、黒船見聞のためにやってきた吉田松陰が佐久間象山と語らったということでも名を知られています。残念なことに関東大震災で徳田屋は焼失してしまいました。今はその跡地に碑が建てられています。これもまた京浜急行線で最寄り駅は浦賀駅となっています。

 さらにさらに横須賀界隈で起こった歴史的事実を拾って歩くことにしましょう。

 実は坂本龍馬の妻、「おりょう」の眠る墓が横須賀にあるのです。「おりょう」こと「龍子(りゅうこ)」は、寺田屋騒動の際に龍馬の危機を救いました。その時たまたま「おりょう」が風呂場にいて窓から捕り方たちの忍び寄る姿を見つけ、素っ裸で危険を知らせたという果敢な逸話が残っています。しかしその翌年、龍馬が暗殺された後、「おりょう」は各地を転々としたそうです。明治八年、1875年に再婚し、その後、横須賀市の「米が浜」に転居したとのこと。それからおよそ三十年後の明治三十九年、1906年にこの地で生涯を閉じました。そうして横須賀の信楽寺(しんぎょうじ)にお墓がつくられ、今ここもまた歴史ファンが訪れる観光スポットになっています。

 このように見ていきますと、横須賀には日本の近代史のターニングポイントとなる様々な痕跡が点在していることがわかります。

 最後にペリーの久里浜での足跡を追って、この文章の締めくくりといたしましょう。
 日本の改革は、浦賀沖のペリー来航がキッカケになって発展していきました。
 ペリーは江戸城に行き、直接、将軍に親書を渡したかったでしょうが、幕府は上手にそれをかわし、久里浜に幔幕を張り、急ごしらえの応接所を作りました。ここで幕府は受け取りの儀式を行ったのです。
その頃の久里浜は美しい浜辺だったと思います。今は護岸が作られ、その上は県道が通っています。

 ペリー上陸の地と言われるところ。そこはかつて予科練で私たちが訓練を受け、汗をぬぐって休憩したところでもあります。そこはいま小さな公園になっています。ここから日本の新しい歴史が始まり、なおかつ、少年である私たちが、ただ国を守り抜きたいという一心で青春を過ごした場所でもあるのです。こんにち、そこは平和な佇まいを見せ、ひっそりと静まり返っています。

参考文献:『幕末史』半藤一利著、新潮社 『三浦半島記 街道をゆく42』司馬遼太郎著 朝日新聞社 『横須賀歴史マップ』提供者 横須賀市経済部観光企画課

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