![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/73168105/rectangle_large_type_2_3fc68e416190427408734c75ab7c938b.jpg?width=800)
Z社の入社に伴う思い出話
親友Kくんから電話があり、採用が決定したので、昭和32年4月から出社するよう連絡があった。
Kくんからは、私の体調を心配しているので十分、健康に留意して勤務に励むよう強い要請もあった。自分としては一日一日、大切にして頑張ると回答した
Kくんは、紹介した手前もあって忠告してくれた。「勤務は厳しいぞ」と言って念を押すことを忘れなかった。さらにその厳しさのせいで体調を崩し、すぐに退職されてはメンツが丸つぶれになって、ひいては信用問題に発展しては困るという彼の真意がありありと受け取れた。それだけ当時、私に健康不安があったということだ。
そして入社から一週間後、そろそろ社内のようすがわかってきた。
総務部という部署は管理業務を担当するところだが、私はそこに配属されることになった。上司は男性の部長と次長が一人ずつ、あと女子社員が一人いた。ここに男性職員として私の入社となったのである。
通勤は京王電車をつかった。まずは京王で新宿まで行った。それから山手線に乗り換えて渋谷に出て、渋谷からは地下鉄に乗って日本橋で下車した。会社が入居するテナントビル「山本山ビル」までは、徒歩で二、三分ぐらいかかったかと思う。
「山本山」とは、言うまでもなく食用海苔の老舗である。「山本山」の店舗は日本橋通りに面した好立地にあったが、テナントビルとしての「山本山ビル」はその裏手に位置する四階建ての雑居ビルで、エレベーターもなかった。Z社は43坪の一室を借りていて、営業部と管理部が専有していた。あと3坪ほどの応接室があった。
貿易部と社長室は、他のビルにあった。そこは山本山ビルから歩いて二、三分ほど離れたところにあって、社長決済であるとか、小切手などの押印は社長の眼前でおこなう必要があった。
当時の社長だが、――仮にM社長としておくが、かねてからKくんの話を聞いていたので、大変、りっぱな方であるとの感想をわたしはもった。
その経歴であるが、明治時代に横浜でうまれ、その後、神戸に移りすんだ。小学校を卒業してからは上京し、中学時代を東京ですごしたあと、海軍機関学校にすすんだ。軍人になる道を選んだのだ。
海軍学校をでてからは、すぐに少尉を任官し、軍艦「日進」に乗艦する。青年は、軍艦での日露戦争の海戦を体験した。その後、大尉に昇進し、清国の革命の勃発の際には、南清艦隊「対馬」に乗艦し、揚子江の警備に当たった。やがて少佐にまでなったが、大正時代には健康を害し、海軍を退官している。
その後、実業界に身を転じ、商社で取締役として活躍をした。が、太平洋戦争が終戦になってからは財閥解体の憂き目にあい、会社からは追われた。しかし、その後、Z社の社長としてその手腕を請われ、実業人として返り咲いたのである。
こうしたM社長の、いわば明治から昭和にわたる艱難辛苦の経歴が、Z社の気風というか、社風を性格づけた。 M社長の稀にみる高潔なる人格と、その堅実性とがあわさり、合理的にして厳格な経営への姿勢が、機械をあつかう商社たるZ社の信用度をたかめた。戦後の混迷した経済環境に打ち克って確固たる基礎確立の成果を収めえたのである。この基礎の上にZ社の躍動期を迎えるのである。
わたしの入社は昭和32年のことであったが、わたしが初代社長と面談できたのは半年ぐらいの短い期間だった。それ以後、病床に人となり、他界するが、社長がわたしに発した言葉をいまになっても忘れることができない。教えられたことは多々あるが、なかでもズシンと脳天を直撃し、いまでも心身が震えるその言葉を以下に再現しておこう。
「自分の頭の上のハエも追えない者が人の粗探しなどするな!」
と叱られたことであった。
この言葉は生涯、有り難い教訓として現在も忘れることはない。
人の欠陥を探すより、まず自己を顧みることの大切さ、すまわちソクラテスのいう「汝、自分自身を知れ」という哲学的な金言にも匹敵する深みをわたしなどは感じるのだ。
さて、日本はいよいよ高度経済成長時代に突入し、邁進してゆくことになる。
昭和32年、西暦でいえば1957年のこと、世相を飾ったトッピクスの一シーンを取りだせば、南極観測隊を思いだすことができるだろう。
当時、南極大陸に到達することは、月に人類が足跡をしるすのと同じくらいの大事業だった。東京オリンピックがまだ、開催されてない頃であり、戦後の日本人の心をおおいに鼓舞したのである。
新聞は、南極上陸に成功し、日章旗を掲げる隊員の雄姿の写真で紙面をはではでしく飾った。南極につくられた「昭和基地」はわたしのみならず、多くの日本人の誇りとなり、希望の光となった。
話をもとに戻そう。
入社後のわたしの仕事であるが、毎朝、先述の社長に決済を仰ぐことだった。具体的には、「社長印」の入った印鑑箱をカンテラのように手に提げ、社長室まで行く。そして社長の面前で決済が必要となる書類、たとえば小切手帳などに、箱から印鑑を取りだし、社長に成り代わってわたしが押印してゆくのである。
その他、人事業務として出勤簿のチェックに給料計算、それから法務的なことがあれば登記関係の手続きもやらなければならないし、各種届出の記入や確認、あと些細なことと思われるかもしれないが、株券に会社印が曲がらないよう押印しなければならなかった。
今では電子化され、株券自体がこの世から消えてなくなったが、わたしとしてはこれが一番緊張する仕事で、朱肉の濃淡にも気をつかったものだ。
朝の出勤時には掃除、机の雑巾がけなどをした。夕刻には見積書の郵便ポストへの投函を行ったり、新聞や書類の綴り込みの作業をした。この時代、冷暖房の設備がビルになかったから冬はストーブの監理をした。多忙の毎日であったから、会社が冷暖房のあるテナントビルに早く引っ越してくれないものかと、よく思ったものだ。
さいごに株券の押印と腹痛のエピソードについて、ここに書きしるしておこう。
たとえば、こんなこともあった。株券に社印を押しているうちに腹痛をもよおし、どうにも我慢できないし、その場に転倒しそうになることが何度もあった。しかし、Kくんから休むな、と釘を刺されていたので、入社早々こんなことになるなんて、と心中で己の不甲斐のなさを毒づいたりした。
そんな或る日のこと。ついに腹痛に耐えきれず、早退したのである。電車の中でも体の置き場がないくらい激痛を感じながら帰宅した。体温も高く、かかりつけの医者に診てもらった。
結果、盲腸との診断である。その日の夜、緊急手術が執りおこなわれた。医者いわく、「過労のため」という。そうして20日ほど入院することになった。その病院では母が看病のため、付き添ってくれた。今では母のやさしいぬくもりを心痛く思っている。
そしてわたしが入院していたころ、かねてから建設中のビルにZ社は移転した。社長ではあるが、惜しくもビルに転居した時点で、その74年もの波乱万丈の人生に幕をおろしたのであった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?