見出し画像

赴任先の大阪で見たもの、聞いたもの

 大阪市の堂島に、毎日新聞社が建てた『毎日会館』というビルがかつてあった。南館と北館があったことを覚えている。

 私が働いていたZ社の大阪支店だが、その毎日会館の八階に入居していた。十五坪ほどの事務所に机を並べた。椅子の数は東西に六脚、それから支店長の机が中央にあったので、じつに手狭な事務所であった。
 ただ熱意をもって働く者には、事務所の狭さなどどうでもいい話だった。
とにかく立地が最高だった。というのも当時の国鉄、現在のJR大阪駅から近かったからである。
 いま思い返すと、その頃の堂島は上品で、きれいな街だった。

 『毎日会館』の北館のビルだが、当時としてモダンなガラス張りだった。一階の入り口のドアもまた、ガラスだった。よく磨き上げられていて透明感があったので、そこにドアがあることに気づかず、体をぶつけたりした。時々そんなことがあったので恥ずかしい思いをした。

 南館の一階には書店があった。屋号は「オーム社」だった。技術書を中心に陳列していた。二階には小型の貸しホールがあり、新聞社のイベントなどが時折、開催されていた。主催者が掲出したであろう広告ポスターをよく眼にしたものだ。

 北館と南館の地下は商店街になっていて、家電のお店、てんぷら屋、その他、飲食店などがあった。それから南館の地下には、『インデアンカレー』の発祥の店があった。
 インデアンカレーとは、辛いカレーの店としてその後、有名になった。いまでは珍しくないが、戦後まもない時代、「口の中が火事」と言われるくらいの辛さであった。梅田の地下街にも店舗をだし、現在も人気を誇っている。

 さて当時のZ社、大阪支店の陣容だが、営業マンが六名、女子が二名(一名は経理女子要員、もう一名は営業要員だった)いて、支店長一名という構成だった。
 朝九時の始業時間になると、営業マンが黒電話にかじりつき、この日の訪問先のアポイントの設定や連絡する声で事務所は「けんけんごうごう」となる。それが日によって多少の違いはあるものの、毎日一時間から一時間半くらいつづくから、毎朝大変な騒ぎであった。まるで元気な張りきった声の競争であった。

 わたしの仕事はといえば、経理や総務関係の仕事で、女子が現金出納帳の記帳および元帳を書いていた。ではわたしが何をしていたかというと、現金がどのくらい必要か、を判断したり、小切手をつくって銀行に税金をだす手続き、営業マンの出張費・交通費の清算、仮払金要求の出金、全員の給料の支給手続き、その他人事的・総務的な手続きのいっさいがっさいを仕切っていた。つまり支店長以下六名の営業マンたちの後方支援が主たる仕事だった。
 さらに本社から要求されている報告書の作成などをした。それから営業の仕事もやった。
 工業学校むけの実習用の工作機械や、あと教育に必要な教材のご用聞きという仕事を時間をみつけては行動した。

 ある日のことだ。支店長の命令でアメリカのメーカーが開発した部品を、京都の某有名研究所に売り込んでこい、という指示が下った。
横文字がサッパリ読めないわたしは、アメリカメーカーのカタログを苦労して読むしかなかった。京阪の電車のなかで、辞書を引きながら懸命になり、なんとか内容がわかってきた。
 土中にふくまれる水分の量を調べる機械であることが、おぼろげではあるがわかってきた。
 大阪から京都まで必死になって辞書とカタログをかわるがわるにらめっこしていたので、目的の駅まで、あっという間だった。

 けれど駅に到着したのはいいものの、それからが大変だった。研究所のある京都の大学までバスに乗っていく。構内にあるはずの研究所の所在を何回も聞いて、ようやくたどり着くことができた。さすがに吉田山の麓にある大学には歴史の風雪を感じた。
 研究所の担当者にカタログを渡し、Z社の売り込みとわたしの自己紹介をして驚いた。何とすでに研究所の先生は、このメーカーの商品についてよく知っていることだった。逆にわたしに商品のついてレクチャーをしてくれ、売り込むどころか大恥をかいて大阪まですごすご帰ってきた。支店長には充分説明できたことや、研究所の先生の名刺をしめして頑張ってきたと嘘をついた。

 さて、日々の暮らしぶりについても書いておこう。
 阪急園田駅にある支店長宅を、社宅にしていたことは前にも書いた。いわば支店長宅で共同生活をしていたのである。

 上司と一つ屋根の下に寝るということが窮屈だったので、羽をのばせるお昼のランチは一人になり、のびのびできる貴重な時間であった。
北新地に「アサヒ」というトンカツ屋、「深川」という蕎麦屋、また少々変わったところでは八百屋のおばさんがやっている飯屋があった。八百屋の店の奥に小さな食堂があった。八百屋が本業だが、店の片隅の入り口から入ると、テーブルが二つあり、ここで食事をするのである。

 この飯屋は、『みそ汁、香の物、ごはん、日替わり干し物』というメニューだが、おもしろいことに現金払いでなかった。八百屋の女将が野菜を売るので多忙なのでツケ払いになっていたのである。つまり帳面に日付と氏名を記入し、月末払いという商売なのである。いわば玄関を改造し、飯屋を副業にしているわけだが、東京でこのような店を見たことがなく、じつに大阪らしい商売だと感心したことがある。いかにも大阪商人らしいと思ったのである。
 堂島川に行く途中にサントリーの本社があって、堂島川沿いには中華料理の『群愛飯店(ぐんあいはんてん)』があった。ここの焼飯はめっぽう美味かった。
 それから堂島川の渡辺橋をわたらずに群愛飯店を川沿いに歩いてやりすごすと、いまはあるか知らないが歴史的な遺物をしめす看板に出くわした。
大阪・堂島が発祥の地といわれている。すなわち『コメ先物市場』のことだ。
 1730年、大阪の「堂島米会所」と称して先物取引がはじまった。日本初の先物取引の発祥の地として、その歴史の痕をしろしめし、顕彰する案内というか、看板が立てられていたのである。

 さて時は昭和35年である。秋には朝日新聞の号外をみた。宮内庁の発表だった。皇太子さまが、日清製粉社長の令嬢、正田美智子さまと婚約された、という内容だった。民間人を皇室が婚約者に選んだことが、大阪支店でも話題になったことを覚えている。
 堂島の東側はといえば、上新地である。昼間はひっそりとしているこの界隈に、日が落ちたならバーやクラブ、日本料理屋などがひしめき、着飾った女性が小走りに行き交い、ネオンも鮮やかに輝く、それはそれは賑やかな夜の社交場だった。

 それから大阪の総括的な印象について最後に語っておきたい。
大阪人は言葉にカドがなく、ぬくもりと人情味があると思う。
 たとえば大阪の事務所で耳にした罵詈雑言にしても何とはなしに「おかしみ」と「あたたかみ」がある。東京の「馬鹿野郎」と大声で怒鳴りつけるのとは大分おもむきが違う。

 大阪で聞いた罵詈雑言と言えば。

①アホか

②月夜の晩ばかりやおまへんで

③ストローで脳みそチュウチュウ吸うたろか

④手ェ突っ込んで奥歯、ガタガタいわしたろか

などなど。

 いずれもユーモア感覚にあふれていて、わたしは好きだ。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?