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人のいやがる軍隊に志願してゆく馬鹿もいる ~その時代に生きた少年達の物語~

 昭和五年のことである。ところは茨城県は霞ケ浦であった。その茨城の地において、少年達をりっぱな海軍軍人に育て上げることを目的に、或る施設が産声を上げた。――いわゆる予科練と呼ぼれる飛行兵育成のための学校だ。そこで育てられた海軍予科練習生たちは、戦闘機の操縦士、飛行機の整備、通信のそれぞれ三部門での訓練をへて、戦場に巣立っていった。

 これは新たな海軍の「志願制度」が発足した結果だった。いわば予科練とは、年齢は十四歳から十七、八歳までの闘争心と義憤にあふれた少年らを『志願』させ、軍人として育成することを主眼とした学校なのだ。

 西條八十(さいじょう・やそ)作詞、古関裕而(こせき・ゆうじ)作曲の軍歌に『若鷲の歌』がある。国を守るために飛行機を操り、大空に羽ばたくのは、当時の少年の夢であった。あこがれの飛行兵をこころざし、自分の可能性を実現しようと挑戦したのである。
その歌の一節を、以下に紹介しよう。

 若い血潮の予科練の
 七つボタンは桜に錨
 今日も飛ぶ飛ぶ霞ケ浦にゃ
 でっかい希望の雲が湧く

 日中戦争のはじまった昭和十二年には、満十六歳以上二十歳未満の少年を「甲種飛行予科訓練生」として採用することとなった。いわば広く門戸をひらき、甲種、乙種(少年飛行兵を意味する)の二種にくわえ、一般兵から転身する少年を丙種とした。飛行兵の拡充をはかる意図をもって応募しやすいよう制度を改めたのである。
 陸軍にもその当時、少年飛行兵制度があったことは忘れてはならない。
そのほか、埼玉の郊外、いまや大規模なベッドタウンへと急成長した「所沢」には、『航空士官学校』があり、幹部を育てる機関だと聞いていた。

 ともあれ、日中戦争が開戦してから太平洋戦争の終結まで、陸海軍ともに航空隊の主戦力となったのは、年若き少年兵の出身者たちであった。それ以外にも、即席の訓練をおこなった大学生を「予備学生」として戦力化した。
上記の者を除けば、第一線で戦った飛行兵は、やはり予科練出身の少年パイロットたちだろう。その八割以上が若くして国のため、死と向き合い、血を流したのである。

 若者ゆえに吸収力に優れ、その操縦技術はすぐにベテランの域に達した。練達の腕を存分に奮い、戦った予科練出身のパイロットは数多かった。
操縦・電信・整備もふくめ、彼らは職人的とでもいうべき超絶的な「勘」を発揮し、鬼神にも劣らぬ活躍ぶりをみせた。そうした活躍を可能ならしめたのは、ごく短期間ではあったが、マンツーマン方式で海軍精神を効率的に叩き込むことができたから、とわたしなどは思っている。
 その技術は、世界的にも抜きん出ていた。思い切って行動すれば、いかなる障害であっても克服できる能力をパイロット志願者は求められ、それゆえ、期待にこたえるべく彼らもまた、じつに平常心をもって出撃していったのである。

 この予科練は、当時の少年たちにとっては一番のエリートコースであった。この時代の上の学校への進学率は3割未満であったため、進学を断念せざるを得ない貧しい家庭の子弟にとっては予科練はまたとない「進学」のチャンスであった。
 わたしは思い出す。中学校に派遣されてきた将校からの訓練は言うにおよばず、陸海軍のポスターが街じゅうに貼られ、青少年を鼓舞していた。当然、子供たちはおおいに感化され、影響された。
 もちろん、志願者は誰でも予科練に行けたわけではない。むろん試験はあった。その頃の少年たちの気持ちを振り返るなら、魂を奮い立たせることができ、なおかつ有用な就職先としての軍であったのでは、と思うのだ。

 海軍、それも大空に羽ばたく戦闘機のパイロットは少年の憧れだ。
それでもいざ予科練に入れば厳しい生活が待っている。わたしなども予科練に行ったクチだが、体罰を食らう日々だった。毎日、棍棒で尻を叩かれることなど思いもしなかった。
 今日、厳しく戒められる体罰ではあるが、たしかに行き過ぎによる弊害はあったろう。だが、そのような厳格な訓練をつうじてしか身につかないものもあるのだ。

 わたし自身も体罰の洗礼を受けた。しかし、いま思えば人格形成の上で有難い「しつけ教育」の一端であることがわかってきた。
 伝統ある海軍が、このような私的制裁を認めていたわけではない。法規上、私的制裁は禁じられていた。

 ただし、先輩が後輩を鍛錬するのは、日本社会における上下関係を築く上での鉄則であり、いまでは悪習とされることでも当時は、強い兵卒をつくるうえでは必要欠くべからざるものと考えられていた(むろん今日では、様々な意見があり、わたしはそれで良いと思っている)。

 訓練の一日は、朝は起床ラッパではじまる。
 ラッパの前にはスピーカーから、『総員起こし五分前』の放送が流される。なぜ五分前なのかというと、それは作業に遅延をきたさない為である。海軍では常に五分前の精神がある。事前に心の準備をさせておくのである。
 
 やがて『総員起こし五分前』のあと、『総員起こし!』の号令がかかる。と同時に慌ただしく一斉に少年たちは活動をはじめる(夏期は朝五時、冬期は朝六時)。
 寝床はキャンパス生地をもちいて作られたハンモックだった。『吊床(つりどこ)上げ』の声がかかると、埃が湧き上がるなか、すばやくハンモックをたたむ。この間、わずか五十秒ないし六十秒しかっからない。

 総員が一か所に集められ、ハンモックを畳むときなどは猛烈な音がし、ピタッと六十秒で元の静寂に戻るさまは壮観であった。そうして自分の帽子や運動靴を着用し、屋外へと駆け出し、集合する。起床から『課業始め』までの時間は一秒を争う競争が展開され、まさに戦場だった。わずかの時間で、朝礼・体操・甲板掃除・洗面・朝食をすませ、隊内をあふれんばかりの活気にみなぎらせたのである。

 海軍は迅速がモットーだ。隊列をくみ、すばやく移動する。帽子を忘れてはいけない。帽子を寝床とかに忘れてきた者の班は、訓練への参加を許されず、全体責任となった。

 軍事訓練ばかりではない。予科練とは、やはりれっきとした学校なのだ。ふつうの学校と変わらない部分も多々あった。

 たとえば軍事的な座学のほかに、国語、数学、英語、物理など、旧制中学に相当する教科がメインとなって授業として実施された。それ以外にも実戦にでれば必要となる通信術、航空術などが目白押しであり、落ちこぼれることは許されない。ぼんやりしている暇などはないのだ。

 武技は銃剣術、体技の海軍体操は日々、行われる日課であった。あと特殊な器具も使用した。たしか『操転機』と称していたと思う。「フープ」とも呼ばれ、前後左右に回転する鉄製の球形の用具であった。これはバランス感覚を養うため、導入されたようである。さらに筋肉をつけるためにも最適な用具であったらしい。

 水泳では、カナヅチ組(泳ぐのが苦手な者)や、泳げない者もいっしょくたにした。みな赤帽をかぶり、赤フンドシを着用した。

 海軍の教育は総じて荒っぽい。
 山育ちの練習生には泳げない者もいた。そうした者は容赦なく海に突き落とされた。だが、そうやって死にもの狂いになるなかで上達してゆくのである。
 年に一度、一万メートルのマラソンが実施される。分隊単位の対抗戦であり、一秒を競うレースとなる。遅れた者を励まし合い、これも個人の競技ではないから全体責任とされた。
 手旗・通信機は会話ができるまで訓練したものの、なかなか身につかないし、体と頭が同時に動くようにはならなかった。
 受信機で受信することは何とかものにはなったが、通信機の「ツー・トン」は、いざ実戦になった時に役に立たなかった、と思う。

 次に食事について書いておこう。
 食事は海軍ならではの特色があり、楽しかった。「海軍カレー」と呼ばれるカレーライスや、肉じゃがなどが定番であった。ときどき、食事当番がまわってきて、自分の食器にメシをぎゅうぎゅう詰め込んで――なんてことはお互い誰でもやった。
 それから「早飯(はやめし)、早食い」は海軍の鉄則であった。日々の訓練のせいか、胃袋は頑丈となり、体も病気知らずの毎日であった。

 さて夜がやってくる。一日の課業の終わりである。居住区に電灯が点くと疲れがでて、早く寝床に入りたくなるのである。
 吊り床をおろしたあと、練習生はいっせいにハンモックに潜り込む。一日の締めくくりとして異常なし、となれば、『巡検終わり』の号令がかかり、消灯の時間となる。

 話の終わりに海軍の訓練の特色についても語っておこう。
 まずもって集団(全体責任)ということに特徴がある。そして集団となって泳ぐのが海軍式の遠泳だ。結果として海の中で仲間に遅れまいとして懸命になって泳ぐ。

 集団、すなわちチームワークを求められるという点では、短艇(カッター)も同様だ。艇の右舷、左舷にそれぞれ六人が乗り、ともに呼吸を合わせた櫂さばきが必要になってくる。艇は前後左右に波の煽りを受けてゆれるなか、教官の笛の合図に合わせ、オールを漕いで海をわたってゆく。櫂は重く、波は荒い。体と気合をチーム全体で一定のリズムに合わせねばならないが、そのリズムが合っていないと、たちまち艇長のツメ竿(ボートフック)が飛んできてガツン、と頭の上に落ちる。

 ツメ竿の一撃を食らい、眼から火花が出る。悔やまれるのは、いつだって自分の体力のなさをだろう。これにはつくづく思い知らされた。

 だが、面白いのはチーム全員の呼吸が一つになり、調子が出てきた時だ。次第にリズムが自然と乗ってきて艇は波を蹴立ててどんどんと海上を鳥のように走り、心身ともに壮快になる。艇長が出す小休止の号令、「櫂あげ」はうれしい瞬間だ。この時ばかりはホッとするし、海は愉しいところだとつくづく思い、汗をふく。

 遠泳と短艇は、おのずと根性のある人間を育てる最上の海軍式教育であったと、今更ながらつくづく思う。
 それは昭和初期のごく当たり前の風景であったが、いまでは軍国主義のそしりを免れない光景であろうと思う。

 当時の多くの少年の心は、祖国のために熱き血潮をたぎらせたものだが、軍への志願は同時に父母の心を苦しめるものでもあった。父母を守ろうと志したものが却って親を苦しめ、親不孝となったのである。戦場にて若き命を散らし、ご子息様は軍神となりました、とほめたたえられたところで、心からよろこぶ親はいない。親はいつまでも子どもに健やかにいて欲しい、と願うものだからである。

 海軍によって鍛えられた健やかな心身は、同時に親不孝という矛盾をも抱え、或る少年は葛藤の中で戦死し、はたまた或る少年は生き延び、灰燼から復活する戦後の驚異的な経済成長時代を生きた。そして今、齢九十の新春を生きるわたしなどは次のような名句とともに、以下のようなことを思うのだ。

 “忠(ちゅう)ならんと欲(ほっ)すれば孝(こう)ならず、孝ならんと欲(ほっ)すれば忠ならず”

 これはかつて平重盛が、父の清盛と朝廷とのあいだで板挟みとなり、葛藤し、苦しんだときの言葉である。祖国を守るため、軍に忠義を尽くすことが逆に親を苦しめ、不孝者となることを指した「たとえ」といえる。

――了。

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