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人生の転機がやってきた

  昭和三十年、西暦でいえば1975年にZ社に入社したが、病気の静養で会社を休んだことは以前に書いた(先にパブ―にて発表した「Z社の面接」、「Z社に入社に伴う思い出話」をご覧ください)。

 そろそろ高度経済成長がはじまろうとしていた時期である。その間に会社は、東京・日本橋にある「山本山ビル」から京橋の「守髄(しゅずい)ビル」に移転した(明治屋の向かいにあった守髄ビルは最近、風の噂によると取り壊されたそうだ。月日の経過ははやいものである)。
 わたしはようやく病気から会社に復帰し、仕事はじめに学卒の定期採用試験で十一名の学卒者を採用した。なお、この年は二回の融資をして資本金は三千万円になっている。

 わたしは地下鉄で京橋に下車して「守髄ビル」に通勤した。この頃から先に書いた社長の病状が悪化し、まもなく逝去されたのである。まったくのゼロから出発し、企業人としてたゆまざる努力をかさねた生涯。そして堅実な基礎の上に社の信用を裏付けた十年、次なる飛躍を新しくせんと羽ばたこうとする時だった。社長は逝去された。奇しくも創立記念日を目前に控えたその日、偉大な支柱を失った精神的ショックはじつに大きかった。
 通夜は自宅で、と定められた。その通夜の下足番をわたしが仰(おお)せつかった。弔問客の履き物を預かり、お帰りの際には遅滞・混乱なくスムーズにお出しする仕事を命じられたのだ。
 葬儀は、社長が旧帝国海軍の出身のゆかりもあり、5月27日(旧海軍の記念日)に東京・青山の斎場において行われた。約八百名の会葬者の参列を得て、社葬を以て厳粛かつ盛大に執り行われた。
また会社の創立十周年の記念行事を箱根の小涌園にて行われた。祝賀の宴をひらき、新時代の決意を誓う場となったのである。十週年の記念には、Kくんのおかげで入社することができたこともあり、お揃いの夏服の背広を新調した。そして二人して記念写真におさまったのは良い思い出となっている。
 会社は社長の死と創立十周年との節目を迎えたが、わたしにも人生の転機が迫っていた。ちょうどサナギから蝶に孵化せんとする時期がちょうど重なりあった。くるりと回転扉が開くように、会社にもまたわたしにもこれまでとは違った明るい世界が、眼前にひらけはじめたのである。

 記念行事がつつがなく終わったあと、突然、わたしは新しい社長に呼びだされた。大阪の支店に転勤するように、との内示があった。その光景は、いまでも脳裡の隅にありありと残っている。

 大阪の印象は、やはり商人の築いた街というものであった。古くは安土桃山時代にまでさかのぼる。豊臣秀吉の時代から商人が活躍した街であり、商人精神を学ぶには恰好の土地である。というのも、その土地の「生きた商人」の空気を自然に呼吸することが勉強になると思ったからである。東京は政治都市であるのに対し、昔は大阪の方が商都としての活気があった。日本を代表する近代の名建築が多く、中之島の公会堂などがその代表格だろう。それらの多くは当時の大商人がスポンサーとなり、寄贈したものがほとんどだ。かつては東京をしのぎ、「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれたゆえんである。NHKの朝の連ドラで勇名を馳せた、大阪商工会議所の初代会頭、五代友厚(ごだいともあつ)をはじめとして、松下幸之助を輩出した土地柄である。

 また、それに加えて何より日本酒がうまい。食い倒れの街と呼ばれるだけあって、やはり食べものがうまいし、何より安い。当時まだ大阪の文豪・織田作之助が生きていた大大阪の空気が残っていた。新社長からはそのような言葉巧みに転勤を誘われたが、わたしは大阪にひどく魅力を感じるようになっていた。

 ご承知のように日本経済は昭和三十年代は成長の時代であり、その勢いに最も拍車のかかった時代でもある。樹々でいうなら、俄かに幹を伸ばし、枝をひろげ、葉を繁らせたダイナミックな時代である。希望をみなぎらせ、働く者はみな懸命であり、必死だった。

 冒頭にもしるしたが、昭和三十年、すなわち1957年は、わたしがZ社に入社いた年だが、神武景気(じんむけいき)と呼ばれ、日本の企業が製造するもの、ことごとく片っ端から売れ、まるで国造りをしているような活気をみなぎらせていた。
 だが、副作用もあった。人手不足が深刻になってきたのである。モノが売れれば、その分、生産しなくてはならない。しかし、すぐ売れるので生産が追い付かない。だから人手が喫緊で必要となる。しかし大量に雇用はするものの、造ったそばから忽ち売り切れていった。となると人材の争奪戦が起こる。供給よりも需要が上回った輝かしい時代でもあった。

 求められるのは、職工だけではない。経済が伸びれば売るための営業力が必要となるし、営業力が求められれば今度は経理のわかる人が要求される。求人は東京近郊にとどまらず、地方にまで蛸の手足のようにゆっくりどんどん伸び、ヒト、モノ、カネが日本の隅々にまで循環し、企業はますます拡大していった。

 とはいえ、残念なことに東京人は関西軽視の念があった。東京人は武家階級出身者が多く、武家の思想が色濃く支配していた。いわば階級意識を空気のように自然に呼吸し、関西の「商人(あきんど)」的な考え方は、さほど重視されなかった。したがってこれから大阪に転勤することは、都落ちする輩(やから)として会社内では冷淡であった。

 しかしわたしは、大阪行きを命じた新社長の誠意を感じていた。わたしの両親は長年、東京に居住していたので、当時のわたしはいずれ東京に戻るものだと軽く思っていた。その頃のわたしの脳裡に占めていたのは、未知の土地で「うまいもの」を食することぐらいだった。軽率な考えだったが、いまから考えると親不孝だったと思う。いわば「忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず【ちゅうならんとほっすればこうならず、こうならんとほっすればちゅうならず】という、会社と親孝行のはざまで揺れたわけだが、今更どうにもならないことだった。

 当時はまだ新幹線は開通していなかった。なので在来線の東京駅のプラットホームは、そのころ、乗降客ばかりでなく見送りにきた客でごった返していた。転勤者が著しく増えた時代の先駆けでもあった。日本経済の血液が、「人材」という形をとり、地方にまで循環しようとしていた時代のはじまりでもある。新幹線の登場は必然だったのである。

 しかし急な転勤だったので、すぐに大阪に住居があるわけではない。なので先に大阪に転勤していた例の親友Kくんに会社が電話をかけた。じつは彼はすでに大阪からさほど遠くない「千里駅」近辺は、「白雲荘(はくうんそう)」なる、まかないつきの下宿に先に住んでいたのである。会社が言うには、まずそこでKくんと同居してはどうか、という話だった。「いや」とも言えず、「はい」と返事をした。そして東京駅で見送りにやってきた会社の人から万歳三唱の声におくられ、感激を胸に抱き、車中の人となったのであった。

 感激もつかの間、わたしは列車のなかで考えた。これまでの人生、大阪になど行ったこともなく、そこに住むなど一度も考えたこともなかった。そのような者が大阪で仕事をするという。自分の歴史が大きく変化するのを感じた。まさに青天の霹靂であった。そんなことをボンヤリ思いながら車窓の移ろいゆく光景を眺めていた。

 大阪駅には親友Kくんと、Nくんが出迎えに出ていた。昭和33年8月30日、ムンムンと暑い大阪に到着した記憶が頭の片隅に残っている。
わたしを追うようにして上司のMさんが大阪支店長に就任することがきまり、大阪へとやってきた。Mさんが赴任する、ということは新たな大阪時代の幕開けであり、始動でもあった。のちにMさんは社長となられる人であった。
 わたしとKくんも白雲荘から引っ越すことになった。あろうことか、M大阪支店長と一つ屋根の下で暮らすこととなったのである。阪急園田駅の近辺に支店長のための社宅をもうけ、そこにMさんを迎え入れることにきまった。社宅と言っても、平屋ではあったが、それはそれは立派な一軒家であった。日本庭園があり、庭木も植わっていた。Mさんは八畳の広い畳敷きの部屋、わたしは応接室でベッド、親友Kくんは台所の横に四畳半の和室があり、それぞれに割り振られた部屋で生活することになった。さらに家政婦さんを雇い入れ、食事等の面倒もみてもらえることとなった。どうして、そのような共同生活をすることになったかというと、それはMさんの側に事情があった。お子さんの学校のつごうですぐには東京から家族を呼ぼ寄せられなかったのである。Mさんは、わたしとKくんと一緒に暮らすことを提案してくれたのである。ただし、その期間はお子さんの学期の切れ目のよい時期までとした。
 前の支店長が引っ越してからすぐ掃除に取り掛かり、わたしたちも「白雲荘」から移動することになった。

 昭和34年の1月1日をもって、わたしは大阪支店の業務課長に昇格することとなった。午前は会計、午後は営業、午後五時からは総務の業務担当となった。その頃の楽しみはと言えば、夕方五時過ぎに大阪は桜橋にある「深川」という名の蕎麦屋に行くことであった。当時は道に面した、木造の店であった。いまはビルの地下にあり、巨大書店ジュンク堂書店の入居する「アバンザ」と道を一つ挟んだ向かい合わせのビルにいまも健在だ。その蕎麦屋でキツネうどんや丼ものをさかんに食べたことを懐かしく思いだす。

 そのビルはいまはもう取り壊されて存在しない。そしてわたしは、毎日会館の八階のある事務所で働いていた。それが大阪支店であり、十五坪のスペースしかなかった。あまりにも手狭で椅子と壁のあいだをカニ歩きしながら進むしかなかった。が、不満も何もなく業績目標を達成すべく蟻のごとく働いた。わたしだけではない。日本人がみな、そうであり、「モーレツの時代」のさきがけであった。

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