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会社の成長と人材の成長について

 昭和33年後半から36年にかけて大型景気の時代だった。それ以前の昭和32年の神武景気より、一層好況感があった。これを岩戸景気とよび、マスコミはいろんな角度から宣伝した。

 成長とは創造にして発展、そして生成である。市場の生産性は否応にも高まり、社会全体がエネルギーに横溢し、その「元気のよさ」が社員のやる気となって感染していった。
 いわば、社会と個人を巻き込むエネルギーが一致し、一つに統一されることで、さらなる大きなうなりを生み、新しいものが誕生しつつあるといった実感があった。
 それでも光があれば闇もある。「会社の成長と個人の成長は違う」のだ。両者にはタイムラグがあり、それゆえ会社が大きく軋むマイナスもある。

 今回は会社と個人の成長の齟齬をテーマに、当時の世相をもふまえて書いてみたいと思う。

 この時期、堂島の『毎日会館』のテナントにZ社の大阪支店が入居していたわけだが、景気が良くなれば当然会社も成長するわけで、そろそろ事務所は手狭になってきた。
 そこで35年2月、Z社の大阪支店は、堂島の道路を横断した先にある、大日本土木ビルの70坪に移転をした。同時に地下の倉庫も借用した。

 一階には、三菱電機の大阪出張所の看板を目にした。敷地は広く、150坪から200坪はあったように思う。さらに空き地は駐車場にもなっていて、わが社の支店長の車も借用することになった。この時代、営業車の導入はまだ行われず、急務の場合、タクシーを利用していた。

 わが社もいよいよ人手不足が逼迫していた。わたしは人事の担当だったので、大阪は北区の職業安定所に求人の手続きをした。むろん学卒ではなく、即戦力となる途中入社を募集し、採用することにした。この募集はよき人材を発掘するために二、三度おこなった。

 とはいえ採用したところで戦力に育つまで時間がかかったし、もちろん戦力にならぬ者もいた。だが半面、社員の士気はますます高まり、社員同士でよい競争心が育まれつつあった。

 社員同士の切磋琢磨がちょくせつ業績向上にかかわっているかはわからない。しかしチームの結束力はいよいよ高まりつつあったのはたしかだった。

 さてチームの結束力について書いたが、同僚とのコミュニケーションならぬ『飲みュニケーション』についても語ろうと思う。

 ほぼ毎月末、『お初天神』を左に見て三分、五分のところに『トリスバー』があった。
 トリスとは、ウイスキーでおなじみのサントリーの商標である。そしてサントリーとは、大阪の企業としては垢ぬけたイメージがあり、「トリス」という洋酒に対しては、わたしのみならず日本中の多くの人たちが魅了され、文字どおり酔わされたのだった。そしてトリスバーに行くことが、いつしかわたしたちのご褒美となっていった。

 社のたてた目標をクリアしたそのつど、トリスバーでしばしば歓談し、おおいに飲んだものだ。このコミュニケーションもますます個々人のやる気を高めた。このようなムードに入れない者は、やはり辞めていった。

 やがてわたしは転居を余儀なくされた。とういうのも以前にも書いたが、支店長と一緒に社宅に同居していたのだが、それは支店長の家族がくるまで、といった条件付きだったからだ。そしてついに昭和35年3月末に一家の来阪が決定した。そのような事情があり、日本住宅公団の『都島団地独身寮』に引っ越そうと心にきめた。

 しかし、である。考えが甘かった。当時の公団はすぐに入居できなかった。いまのようにマンションが供給過剰になり、住む場所が飽和した時代ではない。戦後、子どもがどんどん生まれる時代にして団地はキラキラと輝く最新流行、新時代の象徴だった。しかもみんなの憧れの的だったので、入居希望者が殺到していた。抽選にもれ、結局のところ団地には入ることがかなわなかった。
 しかたなく支店長の車の運転手に相談した。すると社宅近くの靴屋の裏の六帖間が空いているというではないか。そこにすぐさま転居することにきめた。

 ところが、靴屋の隣がいまは懐かしい銭湯だった。会社帰りにすぐ湯につかれるといったメリットはあったが、このときばかりはデメリットの方が大きかった。というのも夜遅くまでお湯を流す、「ザ―」という音やら、桶を置く「ポーン」という音が反響してうるさかったからである。

 そろそろ本題に入りたいと思う。わたしがこの文章で語りたかったのは、「会社の成長と個人の成長は違う」というテーマだった。

 管理部内で働く者として与えられた使命とはなんだろうか? 
それは激しい競争社会で生き残りを賭け、企業は性能のよい社員をつくること、端的にいえばそれでしかない。それが管理部門で最優先にか求められることなのだ。

 しかも短い期間で効率のよい社員教育とはどうあるべきかが、真摯に問われているのだと思う。

 人間とは、100人いれば100人ともそれぞれ個性をもった「違う」存在である。機械的な促成栽培などできようはずもない。こんにちのようなマニュアルのない時代だった。一人ひとり手塩にかけて育てる、そんな時代でもあった。個性をもったユニークな人間の能力を、さらに会社に役立つよう、どう高めてゆくか、頭を悩ませる日々でもあった。

 昔の話で恐縮だが、わたしが大阪支社でしたことを述べておきたい。風通しのいい支店でなければならないと思い、挨拶を励行しようとしたし、実践もした。

 また、商社の丸紅の「人の評価」についての考え方がいまでも参考になるかと思うので、以下に引いておこうと思う。いわば「人財」に関する研究なのだと思う。組織人のみならず、人間として有為な存在か否か、簡潔な言葉で書いてあり、考えさせられる。ただし一部に造語があるので注意されたい

1. 「人財」……企業にとって実績もあり、将来性の高い人。財産といえる人物。
2. 「人材」……企業にとって実績はないが、将来性の高い人。
3. 「人済」……企業にとって業績は高いが、将来性の低い人。
4. 「人在」……企業にとって実績のない人。したがって「やる気」もなく将来性の低い人。
5. 「人罪」……企業の役に立たない人。社内の空気を乱し、罪になる人。

以上。

 企業の成長は、外的な理由が作用するので、思った以上に加速がつく場合がある。しかし、その反面、会社を操縦する人間の成長は、必ずしも歩調をあわせて育ってくれるとは限らない。人間の育成には、えてして時間がかかり、コントロールもできず、リスクがともなうものだ。

 せっかく育てた人材が袂(たもと)を分かって退職してゆくケースがあることも知るべきだろう。

 いずれにせよ、会社はヒトだけでなく、モノ・カネ、情報が渾然一体となり、時代の要請もうけ、火の玉となって突進してゆくことが会社の成長の秘訣だとわたしは思う。

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