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2023年7月の記事一覧
「ふーん」の近代文学25 汁粉はぜんざいか
三島由紀夫が最後の最後におしるこ万歳と言い出したことはよく知られていよう。それは自分が太宰と同じだと認める発言である。ところで夏目漱石と芥川の間、芥川と谷崎の間、芥川と太宰の間、織田作と太宰の間ではぜんざいと汁粉が奇妙に捻じれて見える。
この汁粉のネタからして漱石は汁粉が好きそうである。
ここを見てもそうだ。
この「汁粉、お雑煮」が鳥取では同じものになる。松山の雑煮は澄まし汁だが、
芥川龍之介の『邪宗門』をどう読むか29 主題・意匠・継承
主題?
芥川がその作品に「主題」というものを明確に定めて書いたかどうかは定かではないし、後の「詩的精神の深浅」といった議論を見ればむしろそのことは露骨には捉えきらない方が良いのかもしれない。
特に『邪宗門』に関して言えば、
・中御門の中納言の死の原因が曖昧
・中御門の姫君が堀川の若殿を受け入れた事情が曖昧
・平太夫の敵討ちが遅く、その決着も曖昧
・堀川の大殿様の退場があっさりしすぎ
・堀
川上未映子の『あなたの鼻がもう少し高ければ』のどこがこわいか?
これは男性が読めばどストレートに怖い。百貨店の地下のフレッシュ・フルーツ・ドリンクコーナーで死んだ魚のような眼をしてグリーン・スム―ジーを飲んでいるお姉さんのような怖さである。いわゆるwithoutの方の、ヘミングウェイの、川上未映子版『男のいない女たち』といった「むせかえるような女くささ」の溢れた作品だ。
またコロナ禍の二十一歳の女性のSNSやらギャラ飲みといった2022年の生々しい現実が
「ふーん」の近代文学24 谷崎の「ふーん」
谷崎の文学世界は不自然だと三島由紀夫は書いている。(『「国を守る」とは何か』)。不自然というのは「時代と歴史の運命から超然としている」からだ。
そのことは谷崎の初期作品に猛烈な天皇批判を見出してみればさも尤もな話で、正直私自身は、三島由紀夫が絶賛するようには後期作品を素直に読むことができない。谷崎源氏まではいいとして『瘋癲老人日記』となると、片仮名がやかましいというのではなく、わざとらしさが
「ふーん」の近代文学22 そんなことある?
これは安倍元総理暗殺の話ではない。
では三島は行為を諦めただろうか。そんなことはない。明確に他者である芸術家に伝達不可能なものである筈の行為を、行為の本質というものに直面する契機をつかむことが芸術家の任務だというのだ。
これは芸術が、芸術家が仮構そのものであると言っているのに等しい。しかしこれは出鱈目な話ではない。現実的に芸術家は仮構であろう。
例えば「刀剣乱舞」が刀の擬人化であるよ
「ふーん」の近代文学⑳ 三島由紀夫から見た芥川龍之介① ということは②もあるんだな、きっと
三島由紀夫が近代文学全体を「ふーん」して古典に遊び、またラディゲなどの外国文学の影響を受け続けた作家であり、晩年においてもまだ翻訳の揃わないジョルジュ・バタイユに心酔するなど、ちょっと賺した作家であることは広く知られてゐよう。
それは村上春樹がやはり肌にべっとりとまとわりつくような日本文学というものを嫌い、ペーパーバックを読み漁り、最初の小説も英語で書き始めたと宣伝されていることとは少し違う
「ふーん」の近代文学⑲ 三島由紀夫の時代
私の文学の表現しようと企ててゐるものが「時代」とその意味であるとここに書いたら、……そう書きはじめられる三島由紀夫の『私の文学』は、案外真面目にこう結論する。
この初出が昭和二十三年三月。まだ三島由紀夫は大蔵省に務めて短篇小説や『盗賊』を書いていた。この年の六月十九日に太宰治は玉川上水で入水自殺を遂げる。河出書房から書下ろし長編小説の依頼を受けた三島由紀夫は九月二日に大蔵省を辞め、そして『仮
「ふーん」の近代文学⑯ ナメクジかナマコみたい
三島由紀夫は作家と云うものは作品の原因ではなく結果だと語る。書いたものを引き受けなければならないから作家なのだ。あるいは三島は芸術と生活の法則を完全に切り分けた。芸術の結果が生活にある必然を命じればそれは運命であり、運命を感じていない人間なんて、ナメクジかナマコみたいに気味が悪いと。
いわれていますよ。ナメクジかナマコみたいに気味が悪いんですって。「ふーん」のみなさん。オルカン投資で儲かった
「ふーん」の近代文学⑭ みんな消えていった
99.9パーセントの生物種は絶滅する。ならば生とは奇蹟ではなく、生きながらえされるという辱めであり、残酷な病なのではなかろうか。
そんなことを想ってみる。
昨日たまたま悪名高い(?)『東大全共闘VS三島由紀夫』の討論を読み返して、学生のほうから「共同幻想」うんぬんという発言があったので、こんなツイートを見るとやはり時代を感じてしまう。吉本隆明は『言語にとって美とは何か』『共同幻想論』