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芥川龍之介の『邪宗門』をどう読むか29 主題・意匠・継承

主題?

 芥川がその作品に「主題」というものを明確に定めて書いたかどうかは定かではないし、後の「詩的精神の深浅」といった議論を見ればむしろそのことは露骨には捉えきらない方が良いのかもしれない。

 特に『邪宗門』に関して言えば、

・中御門の中納言の死の原因が曖昧
・中御門の姫君が堀川の若殿を受け入れた事情が曖昧
・平太夫の敵討ちが遅く、その決着も曖昧
・堀川の大殿様の退場があっさりしすぎ
・堀川の若殿様に妙な度量があり過ぎ
・菅原雅平が法力を得た過程が曖昧

 ……など書かれている部分ではバランスが悪く見えるポイントがいくつもある。全ての芥川作品が過不足なくキャラクターに始末をつけるわけではないにせよ、いささか散らかり過ぎている。

 これで主題を求めることは……

反恋愛小説

 芥川龍之介作品に純粋な恋愛小説はない。「伊勢物語をそのままの恋をするよりほかはあるまい」などという堀川の若殿様の戯言はひっくり返るにしくはない。天が下の色ごのみという評判は仮面であろう。

 中御門の姫君の堀川の若殿様への思いも眉唾ものだ。そうでなければ『竹取物語』が持ち出されることもあるまい。「御寵愛の猫も同様、さんざん御弄り」になる姫君の本性と堀川の若殿様に流れる鬼神・堀川の大殿様の血がぶつかり合えば、風雅な恋など吹き飛んでしまうだろう。

 芥川は女性の恐ろしさを書き続けた作家だ。フェミニストが喜びそうな作品はたった一つしか書いていない。「伊勢物語をそのままの恋をするよりほかはあるまい」というふりがひっくり返るところ、恋の無常は主題の一つと言えるだろう。


反宗教小説

 芥川作品の肝は常に皮肉、逆説である。従って、仮に仏僧一人を貶めたにせよ、天上皇帝万歳で閉じることはあり得ない。釈教が邪宗、摩利の教が邪宗ではなく、いずれも邪宗なのだ。

 残されたタイトルからして、『邪宗門』が真正面から宗教の「邪」な部分を主題とした作品であろうことは確かだ。「赤裸の幼子を抱いて居るけうとさは、とんと人間の肉を食む女夜叉のよう」と言われる女菩薩は、覆されたマリア像であろう。そんなものを掲げる摩利の教が正法としてまかり通ることはあるまい。


意匠?

 この『邪宗門』特異の意匠と言えば正邪貴賤の衝突、殿上人と河原乞食の衝突にあるといって良かろう。その他の作品でも芥川は白癩や非人を用いてきたが、『邪宗門』ほど露骨に、正邪貴賤の衝突の構えを作った作品は他にない。その構えが菅原雅平ひとりの手柄に終わるのか、そこからの展開があるのかが不明な点は甚だ残念というよりない。


継承?


 どうも『邪宗門』そのものが直接的には『地獄変』の続編であり、『羅生門』や『偸盗』とも緩く結びつきながら、夏目先生を見習って何か大きなものを書こうとした結果の「挫折」であることは認めるしかなさそうだ。

 しかし問題は『邪宗門』が未完に終わったことそのものではなく、これだけの設定やキャラクター、先ほど挙げた正邪貴賤の衝突の構えが丸ごと打ち捨てられて、その後一切省みられることがなかったように見受けられることだ。つまり『邪宗門』の可能性を継承しようという意図が感じられる作品が見つからない。

 そんなものはそもそも存在しないし、存在するべきではないと仮定してしまうと、『地獄変』の続編という着想そのものがまた奇妙なものに思えてくる。無理に何とか完成させることはできたのではないかという疑いは消えない。

 そうでなければ三島由紀夫に「あれほど潔癖に作品の小宇宙の完成を心がけた人」などと言われる訳はないのだ。

 おそらくやればできただろうにしなかったというのが真相ではなかろうか。つまり未完であることも含めて、『邪宗門』は一つの作品なのだ。それは何かの戒めのように捨て置かれた。

 いや、よく探せば本当は続きがあるのかもしれない。

 『彼 第三』のように。



[余談]

 しかし三島由紀夫が『文章読本』で近代日本のもっとも典型的な短篇小説家として芥川龍之介の名前を挙げ、『邪宗門』に触れていないのはどうしてだろうか。むしろそこに引っかからないで芥川龍之介を読んだと言えるだろうか。『邪宗門』はあからさまな短篇小説の文体で長いものを目指して書かれている。

 三島は又長編小説の文体を持った作家として夏目漱石の名前を挙げない。『三四郎』などは典型的な長編小説の文体で書かれた傑作だと思うのだが。


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