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芥川龍之介の『河童』をどう読むか⑥ フェミニストお怒り作品ランキング一位

 昨日は第二十三号を最初からおかしい人間だと見ることで、遺伝性疾患としての精神病に絡めとられながら、河童の国の幻想の中に動物的エネルギイの充足を求める密かな願望が見られるのではないかというような話を書いた。もっと生々しい話をしてしまえば第二十三号は雌の河童たちと何もなかったわけではないのではないかと。

 ところが『河童』には『歯車』に見られたような外国人女性、おそらく西洋白人と呼ばれているような異性に向けられる生々しい視線と云うものはない。第二十三号にとって雌の河童たちは雄の河童たちを追いかけまわし、時には追いかけさせる貪欲で狡猾な存在てあり、例えば第二十三号と雌河童の間には恋愛染みたエピソードは全く存在しない。
 少なくとも書かれている部分では、そうしたものはない。

 もっともまた時には雌の河童を一生懸命に追いかける雄の河童もないではありません。しかしそれもほんとうのところは追いかけずにはいられないように雌の河童が仕向けるのです。僕はやはり気違いのように雌の河童を追いかけている雄の河童も見かけました。雌の河童は逃げてゆくうちにも、時々わざと立ち止まってみたり、四ん這いになったりして見せるのです。おまけにちょうどいい時分になると、さもがっかりしたように楽々とつかませてしまうのです。僕の見かけた雄の河童は雌の河童を抱いたなり、しばらくそこに転がっていました。が、やっと起き上がったのを見ると、失望というか、後悔というか、とにかくなんとも形容できない、気の毒な顔をしていました。

 (芥川龍之介『河童』)

 まるで賢者タイムの幻想のように第二十三号は雌河童を突き放してみている。

 いやいやいやいや。そんなことはない。

 そもそも芥川はそういう作家であり、『河童』だけが雌に厳しいわけではない。むしろ『河童』こそは、架空の生き物の世界に準えることで得た自由によって徹底的に雌を侮蔑する反フェミニズム小説なのだ。

 芥川龍之介という作家は、妻に与えたような甘ったるい愛情をその作中で女に振り向けたことがただの一度でもあっただろうか。

 例えば仮にここで「フェミニストお怒り作品ランキング・芥川龍之介編」というものを考えてみたらどうなるだろうか。

1位 『女』
2位 『死後』 
3位 『好色』
4位 『或恋愛小説 ――或は「恋愛は至上なり」――』
5位 『羅生門』
6位 『地獄変』
7位 『南京の基督』
8位 『女体』
9位 『第四の夫から』
10位 『たね子の憂鬱』

 
こんな感じだろうか。無理やり私の幻聴を付け足せばこういうことになる。※これはけして私の感想ではない。

1位 『女』子供を産んで何が悪い!
2位 『死後』未亡人が再婚したら悪いのか! 
3位 『好色』雲谷鰻!
4位 『或恋愛小説 ――或は「恋愛は至上なり」――』肥って悪いか!
5位 『羅生門』お婆さんを裸にするな!
6位 『地獄変』娘を焼くな!
7位 『南京の基督』買春させるな!
8位 『女体』虱にならないと女体美が分からんのか!
9位 『第四の夫から』一妻多夫制を揶揄っているやろ!
10位 『たね子の憂鬱』女房を「家政読本」に縛り付けるな!

 こんな感じだろうか。しかしどうだろうこれがもしも「雌河童フェミニストお怒り作品ランキング・芥川龍之介編」だとしたら、

1位 『河童』
2位 『死後』 
3位 『第四の夫から』
4位 『或恋愛小説 ――或は「恋愛は至上なり」――』
5位 『羅生門』
6位 『地獄変』
7位 『南京の基督』
8位 『女体』
9位 『女』
10位 『たね子の憂鬱』

 こんな感じにならないものだろうか。

 今更ながら『河童』は女癖が悪い芥川の身勝手な女性蔑視が(愉快に)現れた現れた作品だと思う。その要素に関して言えば、現在ではけして褒められたものではない。しかし女の狡猾さ、秘められた動物的エネルギーと性欲、男の騙されやすさといったものを指摘した、反恋愛小説であるという点において、芥川龍之介という作家の一つのスタイルを貫いた作品であることは間違いない。

 じつはこうして書きながらずっと「フェミニストお悦び作品ランキング・芥川龍之介編」にノミネートされそうな作品を思い出そうとして、一つも思い当たるものがないことに呆れている。

 何か一つくらい……そう考えて、一つとして思いつかない。案外おっちょこちょいが『あばばばば』なんかを女性賛美と勘違いしそうではあるが。

 そんなわけで、今日は芥川の「れ」だけ覚えて帰ってください。


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