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芥川龍之介の『女』をどう読むか② 誰からも下着を降ろされることのない女の人生

 たとえば『女』という小説のタイトルが『母』ではないことをどう受け止めればいいのだろうか。

ほとんど「悪」それ自身のような、真夏の自然に生きている女は。

(芥川龍之介『女』)

 こう結ばれてしまった小説には何の救いもないようにも思える。しかしそうではないのだ。

 むしろ「素枯れた莟」の方が幸福であっただろうか。その花びらを間開くこともなく素枯れること、それは介護生活に入るまでは誰からも下着を降ろされることのない女の人生のようではなかろうか。そんなものは股間を隠さないパンツと同じものだ。

 その「素枯れた莟」に対して一方では「天職を果した母親の限りない歓喜を感じ」た雌蜘蛛がいたのだ。
 つまりここには母になる女と母にならない女という、二人の女の対比があったとみるべきなのだろう。

 だからタイトルは『母』ではなく『女』なのだ。そのことはむしろほとんど隠されてもいない。むしろ露骨にぼろんと放り出されている。

 ただ庚申薔薇の意匠のように論ってくれる者がいないだけだ。

 それはやはり読解力の問題だろう。

 おそらく私以外のすべての人は、何か不思議な力に押さえつけられ、近代文学を正しく読むことを完全に禁じられているのだ。どうしても正しく読むということができないのだ。

 そんな馬鹿なことはない?

 この現行日本法規に根本的な欠陥があることを指摘しているのは、今のところ私一人だ。

 今のところ?

 それは殆ど永遠なのかもしれない。


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