夏目漱石の『坑夫』をどう読むか① 性格なんてものはないのだ
呼ばれて見ると性根があるのは不思議なものだ
夏目漱石作品の中でも『坑夫』には特に多く「意識」に関する様々な考察が見られる。それを全てゼームスの影響と見ることは空しい。ここも「性根」と呼ばれる自分の根本の部分が、他者の呼びかけに応じて生ずることの不思議さを捉えている。ただその見立ては、
このように理解しては出てこない。
この「2 たしかな心。正気。」が比較的近い解釈ではなかろうか。ここはなにか注釈が欲しいところ。なんならここが性根の用例として例示されても良いのかと思う。
まず正気はある。そして「何の気もなく振り向いた。応ずるためと云う意識さえ持たなかったのは事実である」としてフロイトに先駆けて「無意識」を発見してしまっている。
ここはびっくりしても良いところだ。
これは決して言い過ぎではない。
なんせ歴史がひっくり返る。
性格なんてものはないものだ
岩波はここで「よく小説家がこんな性格を書くの……」というところに注を付け、創作における登場人物の性格付けの話を論ずる。しかしここでかなり大きな問題が二つ指摘されていることを見るべきであろう。一つは「性格論の否定」もう一つは「自分と他人は違うかもしれない、他者の解らなさ」という問題である。
つまり今度はユングが否定されていることになる。しかし漱石サーガでは既に『坊っちゃん』や『野分』においてクレッチマーに先駆けて、独自の体格と気質の類型が例示されており、それはその後の作品の多くで概ね継承されていくことになる。
この部分のみに夏目漱石の「性格論」の結論があるわけではないが、ここで一旦性格の単純化、類型化が批判されていることは指摘すべきであろう。
他人も自分同様締りのない人間に違ないと早合点をしているのかも知れない
自分には自分の意識しかない。他人がなにをどう考えているのかは想像するよりない。どう考えても猫は人間より馬鹿ではないかと思うが、そうではない可能性を指摘したのも夏目漱石である。つまり自分だけがこんなにまとめにくいもの、複雑なものであるかどうかは結局のところ解らないのだ。
つまりここで漱石は「哲学的ゾンビ」にまで考えが至り、複雑な自己と単純な他者という問題が認知バイアスではない可能性を示唆している。
書かれている時代を考えると、これは画期的なことだ。
これは決して言い過ぎではない。
了簡なんだろうと思われる
ここが凄い。「御前さん、働く了簡はないかね」と質問されて、自分の了簡を考察している。
①なにしろ人のいないところへ行く気でいた。……これが自覚していた意識、顕在化していた意識である。
②のに振り向いてどてらの方へあるき出したのだから人間の引力が強い、同時に自分の所志にもう背ねばならぬほどに自分は薄弱なものであった。……これが無意識の所作によって顕在化した深層心理である。
夏目漱石はなんと深層心理まで説明したことになる。ここまで私の深読みはない。書いてあることそのままで、凄い。ちなみに日本で深層心理などという言葉が使われ始めるのは昭和十一年頃からである。
人の事のように書くのは何となく変だが
全く変である。難なく読めば読めてしまうが、ここで「他人も自分同様締りのない人間に違ないと早合点をしているのかも知れない」という台詞が効いてくる。
実は私は自分の意識、あるいは言葉、感情が湧いてくる根源の所を意識することができない。それでいて勝手に他人も大体同じようなものなのではないかと考えている。
なんなら私は自分の意識の魂胆が読めない。意志らしきものはある。予定とか、こうしたいという考えはある。しかし指先に細かい命令は与えていない。考えた言葉を勝手に指がキーボードに打ち込む。ひらがな入力なので「ゅ」「ょ」「を」の時には、親指は勝手に開いてシフトキーを押している。右手だけの片手入力である。
話を元へ。私には「だからやりますと云わずにやる気ですと云ったんだろう」という分析ができない。かなり昔の自分の文章を読み返せばそういう分析ができるのかもしれないが、今今話している自分を外側から見て、魂胆を推量する二重の意識が持てない。
ここはただ自分の意思が固まっていないという程度のことが書かれている訳ではない。ここではカルテジアン劇場と呼ばれる意識のモデルがやすやすと提示され、そのことで「締りのない人間」という一つの思考実験が行われているように私には思える。
減っていたのに気がついたのか分らない
意識ばかりか肉体も他人事である。
君、煙草を呑むかい
呼びかけは「若い衆さん」「御前さん」「君」と変化して「御前さん」に戻り「君」「君」「君」と続いて「お前さん」になる。
私の心は記憶があるばかりで、実はばらばらなんです
ここでは何故私は私なのかという問題を突き抜けて、自己同一性の問題が考えられている。「惜しい事に当時の自分には自分に対する研究心と云うものがまるでなかった。」とある通り、ここまで自分というものが徹底して研究されている。そしてここまでで得られた達観は「人間ほど的にならないものはない。」という事実である。
この正体の知れないもの
ここもまたすごい。まるで『色彩のない多崎つくると彼の巡礼の年』みたいだ。自分の中にあり、正体の知れないもの。潜伏期があるもの。……こうなるともうこれは単なる無意識や深層心理ではおさまらなくなる。
少し気が早いが、『三四郎』の佐々木与次郎の見せる二面性のヒントがこんなところにあるようにさえ思えてくる。
多崎つくるは極論としての「夢強姦」のようなところまで考えてしまう。現実としてはあり得ないが、あり得たかもしれない罪悪感のようなものとして、白根柚木の強姦死は捉えられた。無論それは極論過ぎる。
しかし物凄く卑近な例としては、証拠物件としての人類の存在がある。生殖器を見せびらかして歩いている人は殆どいないのに(たまにはいる)、何故か多くの人間が存在している。この事実だけからも人間には秘められた部分があることだけは確かだ。
野球選手だけが特別淫乱なわけでも無かろう。
正体の知れないものの正体を性的なものに押し込めることもできない。ここで「思想や感情」と言われているように、例えば相当な潜伏期を経て芥川龍之介は唐突に楠木正成を持ち出した。
何故死ぬ間際になって楠木正成の敵は誰かなどと言い出したのかは誰にもわからないことだろう。そこに分かりやすいストーリーはない。推古から明治までの歴史をたどる小説を書こうとすれば、今更ながら明治政府の唐突さが際立つということなのか、幻の南朝の問題を問い直さねばならないと思ったのか。
しかしそんな芥川龍之介の遺作が書かれうることさえ、夏目漱石にとっては意外ですらないのかもしれない。
戦争中は古今和歌集を読みふけっていた三島由紀夫があんなことになっても、夏目漱石にとっては意外ですらないのかもしれない。
ただただ、夏目漱石はいつでも意外である。
[付記]
今回から少し註釈の校正からは離れてみた。
重箱の隅をつつくようなことの前に大枠で捉えておかねばならないことがたくさん目についたからだ。
当然何か勘違いを見つけたら指摘はするとして、少なくとも「フロイトの精神分析學に基づく解釈」などというもので夏目漱石作品を読み解けるわけはないということだけは先にはっきりさせておきたいのだ。
性的抑圧で何でも解決するわけではない。
国民栄誉賞?
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