あまり真面目腐って他人の粗さがしみたようなことばかりしていると人間がせせこましくなっていけないので、今日はむしろ注を付けにくいところ、しかし作品読解や、漱石論としては摘まんでおくと面白いところを拾ってみようと思う。摘まむと云ったり拾うと云ったり少々いい加減だが、いい加減にやらないと届かないところもあるのだ。まずはここ。
普通の小説家
ここで言われる普通の小説家をどこの誰兵衛とまで特定する必要はあるまい。普通の、とは大雑把な括りだ。ただ明治文学史において、夏目漱石は後発であり、紅葉露伴の後色々あって、よく知られている自然主義他、家庭小説、深刻小説といった様々なジャンルが既に存在していたことは知識として頭に入れておいてもいいだろう。
これらの後に自然主義文学が興り、そのさなかに夏目漱石が非自然主義文学、浪漫派、風刺小説と呼ばれて盛んに人気を拝したと捉えて良いだろう。しかしこうした定義や小史は三島由紀夫の『奔馬』にあるとおり小さな矛盾を含んで成り立つものであり、初期夏目漱石作品、『カーライル博物館』や『倫敦塔』から読んでいた岩野泡鳴などにとっては漱石は泉鏡花以上に幻想的な作家であった。
また比較的早く漱石論をまとめた大町桂月にとっては「夏目式」と言わざるを得ない程度にまとまらない存在であった。つまりこれまでのどの主義やジャンルからもはみ出し、新しい趣向を見せていた。一般的に心理小説と対置される観念小説も、あるいは光明小説、悲惨小説も、便利ツールなしで人の心に入り込んで無暗に詮索していたことは確かで、漱石はここでそうではないものを提示しようとしていると見受けられる。
これは『虞美人草』を途中まで読んでいる時点での大町桂月の見立てだが、「美を美として描ける小說」として漱石に押し切られている。まだ俯瞰で眺める位置にいないので仕方がない。これが現在ではこんな感じで嬲られるのだからたまらない。
そもそも今更フロイトを持ち出して、フロイトに毒されていない漱石作品を考察しようという発想がいただけない。
この人は、まさにこの記事を読んだら死にたくなるのではなかろうか。
勿論フロイトにも汲むべき点はあるだろうが、彼の精神分析論はいわゆる「文学」であって科学ではないことは確認しておくべきだろう。たとえばリビドーとは観念なのかね? 実体なのかね? これが「ない」となるとリビドーに依拠した理屈が全て崩れてしまうけれど、後期フロイトはリビドーなる概念を放棄したようにしか思えない。当時は生気論と機械論の統合が期待されており、その気運をリビドー理論は上手く拾って人気を博したものの、それが何なのかという答えをフロイトは持たなかった。その外ポテンツ仮説とかいろいろ言われている中で、リビドーを実在するエネルギー、宇宙に遍在する愛のエネルギーとして発見したのがウィルヘルム・ライヒで、そのエネルギーはオルゴン・エネルギーと命名された。
ライヒはそのオルゴン・エネルギーの研究を発展させ、降雨実験などを何度も成功させながら、今ではインチキ科学者として葬り去られている。(一部にはライヒアンと呼ばれる信者がいる。)
現在ライヒの成果としては精々『ファシズムの大衆心理』がエーリヒ・フロムに先んじてのフロイト左派としての思想性が認められるのみで、『オルガズムの機能』などは珍本扱いである。
そういう意味ではフロイトの精神分析も原理を欠いた空論として捨てるべきなのだが、近代文学1.0はとにかくフロイトを重宝してきた。
その結果としてこんな頓珍漢な講義が行われているのだ。
大概にした方がいい。
何も「美を美として描ける小說」が漱石の主義だというわけではない。この作の意匠だというのである。『こころ』の裏テーマは静が生き残るところにある。それが読めないでフロイトがどうだなんてやっているのは既に周りが見えていない、オカルトな信仰者に堕ちている証拠だ。フロイトを持ち出すならリビドーを発見してからにしてほしいものだ。
で、何の話?
勝手な真似の根本を探って、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる、とは書き方の話でもあり、読み方の話でもある。ないものをあるとしては詰まらない。悲惨小説のように読んではつまらないという話だ。
面はいいようだが、本当はき印ですぜ
話はここに繋がる。先に言ってしまうと『行人』にも繋がる。つまり人の心って何なのだろうという話だ。人の心がどうだって、脳科学者がマイクロジェスチャーを見極めるようにはいかないものの、どうしたって言動から察することになる。つまり画だ。「面はいいようだが、本当はき印」とは現代では面と向かって云われないまでも密かに囁かれはする。言葉を変えれば遠慮なく言われる。
文章読解力がないと言われる。
ある意味で「美を美として描ける小說」として『草枕』が成立したのは、「面はいいようだが、本当はき印」としないで「本当はき印だか何だか知らないが面はいいようだ」という意味の転換があってこそだろう。ここにフロイトやマルクスを持ってきても何もいいことは無い。
例えば『行人』の一郎の苦しみは、テレパシーの研究までして直の心を知ろうとしたことだ。その点出戻りの精神病の娘さんの死体に接吻する三沢が『草枕』における「余」である。それでどこかの御令嬢とさっさと結ばれるのだから大したものである。
むしろ『草枕』に一郎を持ってきたら随分浮いただろうなと思う。なに精神病同士うまく行ったかもしれない?
筋のほかに何か読むものがありますか
やはり漱石の文学観にも変遷がある、というより波がある。『吾輩は猫である』から眺めると誠にその通り、どこか適当なところを開いて一下り読むとそれが面白い。毎回通して読むには少し分量が多い。
これが明治四十二年六月十二日のものなので(『草枕』は明治三十九年の作)、『草枕』に書かれている読書法が漱石の一貫した主張というわけでもなく、漱石自身が次第に筋や構造というところに物凄い仕掛けを考え付くようになる。
とは言え、『草枕』はやはり筋そのものには重きを置かず、絵を描いたということになろう。
これは余がフラッシュしているシーンである。
こんな場面場面が『草枕』の面白みである。
[余談]
芥川龍之介の『羅生門』における見事なカメラワーク、これが現代のわれわれ、『ミスター味っ子』から『鬼滅の刃』まで見てきた我々にこそ華麗なのだが、もしかしたら広瀬や久米など当時の人間からしたら、ただ目が回るものだったのかもしれないと昨日思いついた。
要するに小津安二郎のような撮り方でこそ理解できるのであり、ズームインとかスイッチとか、ましてやハンディカメラでの縦に一回転などは、偉くもなんともなかった可能性もあるのではなかろうか。
つまり、
こうした見事としか言いようのない漱石の描写も昔の人には何だか解らないものだったのかもしれない。これも夏目漱石がタイムトラベラーである証の一つであろうか。