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芥川龍之介の『あばばばば』をどう読むか⑦ それは書かなくてもいいこと 

 これは本来墓場まで持っていくべき話だが、このnoteの閲覧者はきわめてゼロに近い、つまり見ないでスキを押しているだけなので、安心して書いてしまおう。携帯電話をライト代わりに翳してくれたおかげで、待ち受け画面にしてある彼氏の写真が見えたことがある。彼女は間もなく結婚したが相手は別の男性であった。おそらくそういうことはよくあることなのだろうが、何故か女性はそんなことを隠したがり、男性は知るのを恐れる。あるいはそんな待ち受け画面を見てしまうと見ないふりをしてしまう。そういうことがある。

 つまり逆にこういうことがある。

 一つは長女に後を向けて次男に乳をのませてゐる女親。
 一つは或女給の胸に下つたいろいろの学校のメダルの一ふさ。
 一つは或玄人上りの細君の必ず客の前へ抱いて来る赤児。

(芥川龍之介『耳目記』)

 ふと『あばばばば』の結びが思い出される。玄人上りの細君とは何とも棘のある言葉だ。しかしそもそも素人の母など存在しないのだから、赤子を勝ち取ったものを「図々しい母」などと呼ばなくてもいいのではないか。

 そう思えばこそ「図々しい母」という芥川の言葉の棘が気にかかる。

「あばばばばばば、ばあ!」
 保吉は女を後ろにしながら、我知らずにやにや笑ひ出した。女はもう「あの女」ではない。度胸の好い母の一人である。一たび子の為になつたが最後、古来如何なる悪事をも犯した、恐ろしい「母」の一人である。この変化は勿論女の為にはあらゆる祝福を与へても好い。しかし娘じみた細君の代りに図々しい母を見出したのは、……保吉は歩みつづけたまま、茫然と家々の空を見上げた。空には南風の渡る中に円い春の月が一つ、白じろとかすかにかかつてゐる。……

(芥川龍之介『あばばばば』)

 度胸の好い母、恐ろしい「母」の一人、図々しい母は玄人上りの細君であり、だからこそ客の前へ月の勘定の合わない赤児を抱いて来てみせ、だからこそ津波に流されたのだと芥川が考えていたとしたら……私? 私ではありませんよ、飽くまでも芥川龍之介がという話です……それは罪と罰みたいな話になるのだろうか。

 そうでなくては度胸の好い母、恐ろしい「母」の一人、図々しい母とまで毒づかなくても良いだろう。

 ここには密かな眇の主人との和解がある。


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