芥川龍之介の『あばばばば』をどう読むか⑦ それは書かなくてもいいこと
これは本来墓場まで持っていくべき話だが、このnoteの閲覧者はきわめてゼロに近い、つまり見ないでスキを押しているだけなので、安心して書いてしまおう。携帯電話をライト代わりに翳してくれたおかげで、待ち受け画面にしてある彼氏の写真が見えたことがある。彼女は間もなく結婚したが相手は別の男性であった。おそらくそういうことはよくあることなのだろうが、何故か女性はそんなことを隠したがり、男性は知るのを恐れる。あるいはそんな待ち受け画面を見てしまうと見ないふりをしてしまう。そういうことがある。
つまり逆にこういうことがある。
ふと『あばばばば』の結びが思い出される。玄人上りの細君とは何とも棘のある言葉だ。しかしそもそも素人の母など存在しないのだから、赤子を勝ち取ったものを「図々しい母」などと呼ばなくてもいいのではないか。
そう思えばこそ「図々しい母」という芥川の言葉の棘が気にかかる。
度胸の好い母、恐ろしい「母」の一人、図々しい母は玄人上りの細君であり、だからこそ客の前へ月の勘定の合わない赤児を抱いて来てみせ、だからこそ津波に流されたのだと芥川が考えていたとしたら……私? 私ではありませんよ、飽くまでも芥川龍之介がという話です……それは罪と罰みたいな話になるのだろうか。
そうでなくては度胸の好い母、恐ろしい「母」の一人、図々しい母とまで毒づかなくても良いだろう。
ここには密かな眇の主人との和解がある。
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