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ひつじ書房の『卒業論文マニュアル』について

 ひつじ書房の『卒業論文マニュアル』を読んでみた。目的は芥川龍之介の『あばばばば』がどの程度理解されているのかを確認する為だった。
 結果として執筆者たちが芥川龍之介の『あばばばば』を理解しているとは言い難いということが解った。シンプルに

①妊娠時期
②津波

 ……に気が付いていない。

 そしてもっと大きな問題に気が付いた。吉田精一の「知的なひねりが目立たない」という程度の読み飛ばしを先行研究にしてしまっているのだ。
 研究とは何かね?
 自分手持ちの感覚で言葉を吐き出すことではなかろう。
 まず命がけで調べることではないか。
 例えば何故フェルメールではなくデ・ホーホなのかと考えたかね?
 いや、何故オランダなのかと考えたかね?
「知的なひねりが目立たない」とは 妊娠時期にも津波にも気が付かないで、よくもとんだ言いがかりが出来たものだ。

 こんなものが先行研究なら、先行研究になど一文の価値もない。ゴミだ。ゴミはいくら集めてもゴミだ。ゴミからはゴミしか生まれない。ゴミを集めさせる現在の論文指導は方法として破綻している。

 そんなものは捨て置いて、『あばばばば』に命がけで註をつけるくらいの気持ちでまずは一言一句を注意深く読むことが必要だ。その上で発見できた疑問点に言及している資料のみを参考文献としてよいのではないか。吉田精一は命がけかどうかは別として芥川全集の解説者となった。これは間違えば殺されても仕方のない立場であるのに、間違えた。

 馬鹿な男である。

※少々言葉がきついと感じる人がいるかもしれないが、「解説者」は既に芥川龍之介作品を支配する「権威なのだ」ということを理解してもらいたい。感想は個人の好き好きだが解説者には一定の責任が付きまとう。しかも全集の解説者ならば、そこには夏目漱石作品に対する小宮豊隆のような情熱が注ぎ込まれるべきであろう。小宮なら適任だ、任せられると皆考えたに違いないし、そこに小さなミスがあっても、間違いは指摘しても、そこをとことん責めようとは思わない。
 ただし芥川龍之介を見下ろし、いい加減なことを書く権威などいらない。そんなものは徹底して排除しなくてはならない。これは盲目の芥川龍之介信仰などではない。時には俊成にも噛みつくことがある。


 吉田精一の「保吉もの」批判は繰り返し書いた通り、回顧の形式で失われたものを描くという物語構造や、保吉と芥川の意識の差を捉えていないなどと云う点から「誤読」と呼んで差し支えない。これを研究にしてしまっては理工系から大笑いされてしまうのではなかろうか。

 ところがこの『卒業論文マニュアル』ではこの程度の馬鹿な男、本来切腹すべき男の誤読を参考にして、何かそれらしいことを書けば卒業論文が出来上がると指南しているのだ。巻末には執筆者の一覧とその卒業論文の題名が並べられている。これらが論文に値しない汚染データであり、この『卒業論文マニュアル』からは汚染データしか生まれないことは明らかだろう。

  そもそもマニュアルで論文を書こうとする根性が卑しい。学問の方法とは、あるいは問題の立て方とは、個々の学者が独自に研鑽し、工夫し、編み出すべきものではなかろうか。押せば出るようなトコロテン方式で出て來るものに何の価値があるものか。

 この恥を知らなくては到底芥川龍之介作品を読むということなどかなわないだろう。

 何故芥川龍之介の『あばばばば』で卒業論文が書けると思っているのかと、最初に興味をもってしまったことすら恥ずかしい。彼らはそもそも何かを書くべきではない。

 命がけで、宇宙で初めて、日本文学史に残すべき芥川龍之介の『あばばばば』の秘密を発見しない限り、論文を書くべきではないのだ。何の発見もできなければ論文など書かなくても良い。何の発見も出来ないものが学位の為に汚染データを増やすことは害悪である。
 そうして夏目漱石がどれだけ汚されてきたことか。 

 執筆者たち。執筆者:安部水紀、荒井真理亜、小谷瑛輔、斎藤理生、佐藤希理恵、武久真士、広瀬正浩、松本和也、水川敬章、山田夏樹、𠮷田恵理、吉田竜也、禧美智章、渡邊英理らにはもう一度虚心に『あばばばば』を再読してもらいたい。




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