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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか① アポフェニアという認知バイアス

 少し迷ったのですが芥川龍之介の『歯車』についても少し書いてみたいと思います。迷ったというのは、この『歯車』という作品が①芥川龍之介自身の病的な心理状態が色濃く出ている作品として見做されていて、②作品そのものとしての解釈をしていいか分からないくらい芥川の体験が書かれている、からです。この『歯車』を作者と切り離して「小説」として読むことができるかどうかについては甚だ怪しいところがあります。「感想」と称した文章にもそうした見立てが溢れていて、……だからこそ、書いてみましょうか。

アポフェニアという認知バイアス

 これは『歯車』を読んだ誰しもが明確に言語化しないまでも理解している筈の事ですが、言語化してみると『歯車』は「単なる偶然を偶然と思えない認知バイアスに陥っている人の話」として読むことが出来ます。

 『歯車』の中ではさまざまな事物が結び付けられます。まずは章タイトルにもなっている「レエン・コオト」ですね。「レエン・コオトを着た幽霊」と「レエン・コオトを着た男」と「轢死した義兄のレエン・コオト」が読者の中でも緩く結びつけられます。芥川自身がどういう心理状態だったかということは別にして、『歯車』の中では一見無関係な「レエン・コオト」が死の暗示のように思えるような書き方がされているということです。

 アポフェニアとは、無意味な情報の中に関連性を見出すことです。しかしもちろん、主人公は自分が無意味な情報の中に関連性を見出していることに自覚的で、さらに言えば自覚的でありながらアポフェニアから逃れられません。当然芥川の意識はその外側にあるので、主人公が無意味な情報の中に関連性を見出していて、そのことに自覚的でありながら、アポフェニアから逃れられない様子を客観的に捉えています。

 つまり『歯車』は「単なる偶然を偶然と思えない認知バイアスに陥っている人の話」であるとして、芥川自身が「単なる偶然を運命の暗示だと思いこんでいる」という話ではないということです。

レキシコンとしての地玉子

 このことはあまり言われてこなかったのではないかと思いますが、芥川龍之介はただ自分の認知のバイアスに振り回される様子を「告白」しているわけではなく、明確に「世界が言語化されるということはどういうことか」「言語が意味を持つとはどういうことか」という問題を意識に上らせていますね。

 要するに「地玉子、オムレツ」という紙札に東海道線に近い田舎を感じたわけなんですが、「地玉子、オムレツ」に本来「東海道線に近い田舎」という意味はありませんよね。しかし感じてしまうわけです。これは「誤謬」かといえば、そうは言えないわけです。これは意味です。おそらく新宿や墨田区で売られている玉子をわざわざ「地玉子」とは呼ばなかったのではないかということです。「地玉子、オムレツ」という紙札には本来、「新鮮な卵を使ったオムレツがありますよ」という意味があるように思ってしまいますが、芥川龍之介は、それは飽くまで店主の意図でしかなく、芥川龍之介の語彙としては田舎の雰囲気を感じさせる文字列なのだ、とわざわざ書いているわけです。

 これが「言語が意味を持つとはどういうことか」という問題に対する芥川の一つの見解ですね。言語というのは受け手の身体性や記憶や精神状態と不可分なものではないということです。

 これは「地玉子、オムレツ」という紙札という偶然に対する過剰な解釈ではありません。

 「写真屋さん、ラヴ・シインって何?」(芥川龍之介『歯車』)

 ラヴ・シインとは何か、これを言語化するのはなかなか困難ではないでしょうか。説明しようとするとどうしても自分が出てしまいます。自分の身体性、過去、記憶、体験。ラヴ・シインに対して『新明解国語辞典』のように語れば、「へえ、そうなんだ」と個性を問われかねません。
 言葉の意味とは、本来そうした隠された領域にも及ぶわけです。

 廊下の隅の給仕だまりには一人も給仕は見えなかった。しかし彼等の話し声はちょっと僕の耳をかすめて行った。それは何とか言われたのに答えた All right と云う英語だった。「オオル・ライト」?――僕はいつかこの対話の意味を正確に掴もうとあせっていた。「オオル・ライト」? 「オオル・ライト」? 何が一体オオル・ライトなのであろう?(芥川龍之介『歯車』)

 要するに辞書を引いて出て來るようなものが言葉の意味ではないということを芥川龍之介は書いているわけですね。

 この「オオル・ライト」の意味は後でもう一度考えます。

アブストラクションとしての現実

 あるいは、この場面はどうでしょう。

 僕はこのホテルの部屋に午前八時頃に目を醒ました。が、ベッドをおりようとすると、スリッパアは不思議にも片っぽしかなかった。それはこの一二年の間、いつも僕に恐怖だの不安だのを与える現象だった。のみならずサンダアルを片っぽだけはいた希臘神話の中の王子を思い出させる現象だった。(芥川龍之介『歯車』)

 片っぽしかないスリッパアはサンダアルを片っぽだけはいた希臘神話の中の王子と結びつけられます。これは平たく言えば「激しい思い込み」に過ぎません。

 ではこれはどうでしょう。

   僕は勿論黙ってしまった。それから又皿の上の肉へナイフやフォオクを加えようとした。すると小さい蛆が一匹静かに肉の縁に蠢いていた。蛆は僕の頭の中にWormと云う英語を呼び起した。それは又麒麟や鳳凰のように或伝説的動物を意味している言葉にも違いなかった。僕はナイフやフォオクを置き、いつか僕の杯にシャンパアニュのつがれるのを眺めていた。(芥川龍之介『歯車』)

 蛆はMade、 gentle、 maggotですが 芥川はわざとWormという言葉を選び、そこに見えているものではないところのもの、すなわち伝説的動物という意味を取り出します。見えているものから言語を取り出し、そこにはない意味を取り出しています。この『歯車』の主人公はこの言葉遊びの連想の中で捨象するように、目の前の現実を放置します。もしもWormが幻覚でないという確信があれば、シャンパアニュのつがれるのを眺めるのではなく、給仕に肉の皿を下げさせるのが先です。

 片っぽしかないスリッパアについては、こんなことになります。

 僕はベルを押して給仕を呼び、スリッパアの片っぽを探して貰うことにした。給仕はけげんな顔をしながら、狭い部屋の中を探しまわった。
「ここにありました。このバスの部屋の中に」
「どうして又そんな所に行っていたのだろう?」
「さあ、鼠かも知れません」(芥川龍之介『歯車』)

 ここで実体もないのに発せられたロゴスは、

 すると大きいが一匹窓かけの下からバスの部屋へ斜めに床の上を走って行った。僕は一足飛びにバスの部屋へ行き、戸をあけて中を探しまわった。が、白いタッブのかげにも鼠らしいものは見えなかった。僕は急に無気味になり、慌ててスリッパアを靴に換えると、人気のない廊下を歩いて行った。(芥川龍之介『歯車』)

 こうして実体化してしまったように思えます。『歯車』の主人公は言語が実体化する世界にいます。それは『聖書』の「創世記」そのものの世界観ではないでしょうか。

 




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