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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか49 ラヴ・シインって何?

 人は大勢の会話の中で指向性を以て何かの言葉を聞き取ることがある。逆に大勢ががやがやと話している言葉に意識を振り向けないと、本当にがやがやと聞こえるだけで意味のある言葉としては聞こえてもおらず、記憶にも一切残らないということがある。
 人は、と書いたが、実際には私がそうである。他人のことは分からない。
 すれ違いざまに他人の会話が聞き取れて、それが気になることがある。

「写真屋さん、ラヴ・シインって何?」
 やはり遠足について来たらしい、僕の前にいた「写真屋さん」は何とかお茶を濁していた。

(芥川龍之介『歯車』)

 何故「僕」は最初にこの言葉を拾ったのだろうか。そこには他にも無数の言葉が飛び交っていた筈なのだ。しかし「僕」は何故か「ラヴ・シイン」に反応した。作者はそんな「僕」を書いた。この共謀の意味はさして明確ではない。
 それでも女生徒の群れがそうした性的欲望の地玉子であることを誰も否定できないだろう。彼女らの何割かはまもなくモダアン……何と云うやつになり、若い亜米利加アメリカ人と踊り、風呂敷包みの中から豹に似た海綿をはみ出させることになる。

 海綿!

 海綿など何に使うのだ?

 まさか化粧パフでもあるまい。

 海綿!

 豹に似た海綿!

 結婚披露式の後、夫婦が何をするのか「僕」は知らない。「ラヴ・シイン」は描かれない。

 しかしおそらくそれは確かに行われることなのだ。そのために遠方から人々は集まり、祝われた。

 「ラヴ・シイン」、それは喜ばしきことなのだ。

 蛆は蠅の子である。蠅の母と父が「ラヴ・シイン」、つまり喜ばしきことを行わなければ蛆は生まれない。一方ステーキらしき肉は牛の死骸の断片である。巨大な刃物で首を落とされ、一瞬悲痛な叫び声をあげたかと思えば、たちまち崩れ落ち、切り刻まれて吊るされて、熟成されたのちさらに細かくスライスされて、鉄板で焼かれた肉片。そこには生と死のいかがわしい邂逅がある。

 人は伝説になることもできる。

 銅像になることもできる。

 お父さんになることもできる。ラヴ・シインと海綿が人をお父さんにするわけではない。

「S子さんの唇を見給え。あれは何人もの接吻の為に……」
 僕はふと口を噤み、鏡の中に彼の後ろ姿を見つめた。彼は丁度耳の下に黄いろい膏薬を貼りつけていた。
「何人もの接吻の為に?」

(芥川龍之介『歯車』)

 接吻の為に?

 それはどこへの接吻の為に?

「写真屋さん、ラヴ・シインって何?」

 いやその前に「鏡の中に彼の後ろ姿を見つめた」とはどういうことだ。そんな奴がいるか。どれだけ警戒しているのだ。つまり「僕」はどれだけやましいのだ。

 そして「僕」は罪を犯した。

 僕は九時にでもなり次第、或雑誌社へ電話をかけ、とにかく金の都合をした上、僕の家へ帰る決心をした。机の上に置いた鞄の中へ本や原稿を押しこみながら。

(芥川龍之介『歯車』)

「僕」は「罪と罰」を借りパクして、屋根裏の隠者に返していない。『歯車』はそんな罪がこっそり隠された作品なのだ。

 まだ誰にも読まれていないが。


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