谷崎潤一郎の『二人の稚児』を読む 56億7000万年後では遅い。来月でも遅い。
何を書いても谷崎自身の告白にされてしまうので、遂にいいことを思いついた。主人公を二人にすればいいのだ。そうすれば少なくとも一人は、谷崎以外の誰かの事だと信じてもらえる。そこで千手丸と瑠璃光丸と二人の稚児を拵えた。俗世間から隔離された比叡山の宿坊での暮らしだ。
ところが年上の千手丸はいきなりこんな剣呑なことを言い始める。
これが書かれたのは大正七年である。もう滅茶苦茶な理屈である。まず「皇帝」とは明治以降の呼び名であろう。帝(みかど)、御門、ではなく「皇帝」という言葉はわざとらしく用いられている。そこに被せて「しかし人間があの御殿に住まへるやうな」とある。御門が人間であること、人間でしかあり得ないことは誰でも知っているが、一応天子様と崇めるのが明治以降の流儀だ。それを「人間が…」とやってしまっている。それだけではない。「十善の王位に生れるには、前世にそれだけの功德を積まなければならないのだ。」と廃仏毀釈した天皇を、仏教の世界観の中に無理やり押し込もうとしている。今、人気の占い師でも、「天皇の前世は何ですか?」と質問されたら頓智で返すしかあるまい。迂闊なことを言えば天皇の神聖を犯し、不敬罪に問われる。宮内庁に「天皇の前世は何ですか?」と質問しても、まともには答えてもらえないだろう。功徳を積めば天皇になれるという発想そのものが、天皇の権威を貶めかねない。
こんなことをいきなり、しかもさらっと書いてしまうのが谷崎潤一郎なのである。しかもこれは冷やかしの余談に過ぎない。ここは掘らない。話は仏教の経典の中で恐ろしい悪とされる女人の乳房についての考察として進行していく。
確かに経典の中では女人が恐ろしいものとして描かれている。谷崎の引用そのものではないが、「女人に、五つの礙あり、轉輪王と釋天王と魔天王と梵天王と佛とに作ることを得ず。」と『大蔵経』にあり、『涅槃経』には「寧ろ此身を熾然たる猛火の中に投ずるも、決して過去、未來、現在の諸佛の制定された戒を破つて一切の女人と不正な關係を結ぶことはすまい」と殆ど私のような覚悟が見える。何れにせよ仏教が男尊女卑の世界であることは間違いない。
しかし二人の稚児はそんな恐ろしい女人が菩薩に似て、何故大蛇より恐ろしいのか理解できないでいた。千手丸は十六歳になり、まだ見ぬ女人が気になって仕方ない、夢に見てはうなされ、如来像の前に跪いても女人の姿がちらついて仕方ない。そこで得度する前に女人を見て妄想を消そうと試みることにした。なんとなく物は試しと吉原の大門をくぐる『颶風』的展開である。このパターンは必ず失敗する。
さて山を下りた千手丸は十日過ぎても戻ってこない。もう生きてはいまいと思ったところ半年後、瑠璃光丸に千手丸から文が届く。使いに聞けば女人とは仏のように情深いものであり、千手丸は遊女の群れにかしづかれながら、楽しい日々を送っているという。
手紙には浮世は夢でも幻でもなく、煩悩凡夫たらんこと楽しく喜ばし、とある。
うがちにつける俗謡の前では、どんな権威も簡単に足を掬われる。煩悩に穢れた世界から不浄の世界へ向かおうとするお釈迦様にも、実子・羅睺羅のお母さんがいたと聞くけれど…というわけである。
しかし瑠璃光丸は来世と仏罰を信じ、里に下りることを断念する。一旦かき乱されそうになった瑠璃光丸の心は、まだ煩悩に惑わされていた。そのことを上人に打ち明け、二十一日間の水垢離(冷水を浴びて祈願すること)を行う。其の満願の夜、普賢菩薩の使者が兜率天から降りてきて、水晶の数珠を授ける。
瑠璃光丸は前世で自分を慕っていた女人の生まれ変わりの瀕死の鳥の首に数珠をかけてやる。
はい、瑠璃光丸は女人に惑わされなかった、よかったよかった、という話ではないのではないか。「普賢菩薩の使者が兜率天から降りてきて」とはどういうことなのか。何故弥勒菩薩ではないのか。
現在兜率天には弥勒菩薩が待機中である。
釈迦の救いに漏れた人たちが救われるのは、56億7000万年後のことである。しかし救済は間に合わないだろう。
とてもではないが間に合わない。仏教が壮大な嘘話であることは間違いない。その嘘話に囚われ、女人を遠ざけた瑠璃光丸は、子供だましの嘘話の中で救われたに過ぎない。だが大正七年の日本に、子供だましではない本当の話などあるというのか?
それでも読者は言うだろう。
「せんせ、うちにはなんでもお見通しでっせ。その瑠璃光丸っていうかわいらしいお稚児さん、その後、鳥の血をしゃぶるんでっしゃろ、せんせみたいに……」
まあ、こうなると何を書いても無駄である。
【余談】
永井荷風の『断腸亭日記』を読んでいくと、昭和三年、齢五十になんなんとするあたりから、荷風がより頑固で偏屈、あるいは狭量で清潔になり、文士の意地を張り、売文家を咎めるような態度が目に付くようになる。
同時に創作意欲を失い、言文一致では森鴎外以外は受け付けず、西鶴や近松や論語を読み返すようになることが解る。
私は鴎外の史伝物に対する過剰な評価に対してはやや批判的で、何もない日々の雨だの晴れだのという記述そのものには無標性こそ認められるべきで、何日が雨で、その日に誰が訪ねて来たかということと、その前日が晴れであったということに過剰な意味を見出す必要はなく、なんなら何もない日の天候は省いても差し支えないと考えている。
このスタイルを至高のものとするならば、必ずそのスタイルをまねた作品がなくてはならないと書いている。
従ってそのスタイルをまねないでべた褒めをしている作家に対しては批判的である。
このロジックからすれば、『断腸亭日記』を書いている永井荷風が森鴎外にぞっこんであることには文句は言えないことになる。
なるほど、荷風は何もない日の天気を書き綴っている。
それにしても森鴎外だけとは…、さすがに狭量ではあるまいか。
芥川も志賀直哉のようなものをの書きたいと思いながら、実は菊池寛のようなものが残るのではないかと考えていた。
菊池寛と云えば「通俗的」とだけ片付けられがちだが、今村上春樹さんが自身の作品でいうところのエンターテイメントとエスタブリツシュメントのハイブリッドという作法に関して、なかなか工夫し、成功したのが菊池寛ではなかったか。
そういう点では森鴎外はやはり過剰に無標性にこだわり過ぎた。
まるでけがらわしいものを振りほどくかのように冷徹に筆を運んだ。
人は老いると植物から鉱物へと嗜好を移すというが、鴎外はまさしく石になろうとしたかのようでさえある。
医師だけに。
断腸亭は五十を過ぎて、菊池寛的な「俗」に耐え切れず、また山本有三的な「德」にも我慢がならなかったようだ。
人間的なものを嫌い、西鶴や近松の前時代的風景、近代化以前の日本の中に、安らぎを求めていたようだ。
安らぎ?
安らぎ何だろう。たとえば論語は急いで読む必要はない。
論語は逃げない。
いつでも好きな時に読めばいい。
今読むべき話題作ではない。
読んでどうなるということもない。
画期的な新解釈の余地もなく、なんなら読まないでも済まされるものだ。
この枯れた感じが論語の魅力だろう。
一方、今生きている人が今日書いているものを読むということは何と生なましく、猥褻なふるまいであろうか。
それは明日読もうとしても、もう読めないものなのかもしれない程度に尖っていて、ぎりぎりで取り返しがつかないものなのだ。
その生なましさに断腸亭は耐えられないのだろう。
しかし断腸亭もそうした生なましい日々を淡々と綴り生きていたことは間違いないのだ。
そして私もまだ生きている。
生なましい日々を、小林麻耶のブログを日々読みながら。
逆に何故大分と宮城で売られているのか?
いや、よく考えたら、菓子パン食いながら運転も危険やろ。
どっちかわからん。
すべっとる。
大体食い物系は、……。
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