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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか46 何故レエン・コオトなのか?
おそらくこのことも誰も書いていないのではなかろうか。
おそらくというのは、私がこれまで書いて来たほとんどの事が、やはり誰も書いていないことであり、芥川龍之介研究家としては優れた方だと尊敬している関口安義氏の著作を拝見する限り、やはりそのようなことは書かれていないからである。
私は普段からこう考えている。芥川龍之介が私小説論で述べた通り、作品の背後の事実のあるなしは作品の価値とは無関係であると。何を喰ったとか誰と寝たとか、そんなことはどうでもいい。ただ作品が作品として面白ければそれでいいと。つまり極端な話かもしれないが『歯車』も自伝的小説として読む必要はなく、実際に芥川龍之介の姉の夫が死んだかどうか、あるいは「レエン・コオト」を着ていたかどうか、それがいつのことでどれだけ芥川龍之介に負担をかけたのかといった作品の背後の事実のあるなしはどうでもいいことだと思っている。
ただし作者が意図して仕掛けた「ふり」があれば、それは可能な限り汲むべきだと考えている。それが例えば「レエン・コオト」だ。「レエン・コオト」も『歯車』という作品の中では主要なライトモチーフの一つである。しかし何故「レエン・コオト」なのか今一つ明確ではない。
無論それは、よく読めば、つまり『歯車』で何度か「くすり」とできる読者にとっては当たり前すぎる話ではあるのだろうが、なかなかそうはならない。『歯車』がどういう粗筋なのか理解できている人すら、まあ、見当たらないからだ。
さて、『歯車』の粗筋とはどんなものか。つまり主人公の「僕」、「A先生」は何をしたか。実はそれは書かれていない。
つまり、
歯車は描かれるがピストンは描かれない。
「君はここに泊っているのですか?」
「ええ、……」
「仕事をしに?」
「ええ、仕事もしているのです」
彼はじっと僕の顔を見つめた。僕は彼の目の中に探偵に近い表情を感じた。
つまり書かれていない。書かれていることは「も」と付け足された仕事の方だ。「A先生」はどうも小説を書いている。それが粗筋だ。『歯車』は小説を書くという小説だ。それがまあ、縦糸と言って良い。一応一貫して小説を書き続け、最後にもう書けないと音を上げている。これがストーリーと言えばストーリーということになる。後はエピソードだ。こう言ってしまうと何だが、作家と云うものは本質的にそういうものだろう。それが野球選手でも同じことだ。生活は野球の為にあり、その外のこまごまとしたことは本質ではない。しかし『歯車』は小説を書くという小説だ、などという当たり前の事実をこれまで誰かが指摘したことがあっただろうか?
笑い事では済まされない。
繰り返し述べているようにこれまで『歯車』に限らず近代文学はただ眺められていただけで、けして真剣には読まれては来なかった。読み飛ばされていた。斜め読みされていた。眺められていた。狐の前脚の構造から物はつかめないと云うものがなかった。つまり「読書好き」から「批評家」まで全ての人々が例外なく嘘つきか知ったかぶりであったということになる。Chat-GPTのお馬鹿加減はその真摯な反映であろう。
根拠?
そして小説を書くという小説のどうでもいい背後の事実として書かれた新しい小説については、作品中でこう説明されている。
こう云う僕を救うものは唯眠りのあるだけだった。しかし催眠剤はいつの間にか一包みも残らずになくなっていた。僕は到底眠らずに苦しみつづけるのに堪えなかった。が、絶望的な勇気を生じ、珈琲を持って来て貰った上、死にもの狂いにペンを動かすことにした。二枚、五枚、七枚、十枚、――原稿は見る見る出来上って行った。僕はこの小説の世界を超自然の動物に満たしていた。のみならずその動物の一匹に僕自身の肖像画を描いていた。
死にもの狂いは芥川龍之介渾身のジョークであろう。そして書かれた小説は、
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なんと『河童 どうか Kappa と発音してください。』だ。「レエン・コオト」は「合羽」の為のふりである。だから河太郎とは呼ばせない。『河童 どうか Kappa と発音してください。』の主人公「僕」はとうとう早発性痴呆症で精神病院に入院してしまっている。
「この町には気違いが一人いますね」
「Hちゃんでしょう。あれは気違いじゃないのですよ。莫迦になってしまったのですよ」
「早発性痴呆と云うやつですね。僕はあいつを見る度に気味が悪くってたまりません。あいつはこの間もどう云う量見か、馬頭観世音の前にお時宜をしていました」
今更「レエン・コオト」は『河童 どうか Kappa と発音してください。』の「ふり」だなどと書けば、私もどこかに閉じ込められるかもしれない。
しかし、
「Bien……très mauvais……pourquoi ?……」
「Pourquoi ?……le diable est mort !……」
「Oui, oui……d'enfer……」
こうしてふいに挟み込まれるフランス語は、
僕はもちろん妙に思いましたから、「Quax, Bag, quo quel, quan?」と言いました。これは日本語に翻訳すれば、「おい、バッグ、どうしたんだ」ということです。
河童たちの国の言葉のようではないか。私はこの暗合を愉快に思い、努めて二つの作品を見比べて、笑い転げることにした。「レエン・コオト」の次は『河童』かよと。こんなに面白い作品は滅多にない。
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