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太宰治の『右大臣実朝』を読む

太宰治の『右大臣実朝』を読む

※私が「読む」という時、その言葉がどれほどのことを意味しているのか、理解してもらうために書きます。



われて砕けて裂けて散るかも


 われて砕けるは良い、裂けて散るのも良いだろう。しかし砕けたものが裂けるだろうか?

 われてと裂けての意味が近いので、音の調べを整えたにせよ、意味が整わなくては秀歌とは言い難い…。

 松尾芭蕉、賀茂真淵、小林秀雄、そして吉本隆明までがほめそやす有名な歌人源実朝に対して、どこぞの馬の骨が今更こんなことを思ってみるのは、どのような酔狂だろうか。

 それでも私は正直であろうと思う。

 正岡子規の『歌よみに与ふる書』は紀貫之を批判した冒頭のみがさかんに取り上げられるが、私にとって意外なのは、むしろ源実朝の持ち上げ様である。

 紀貫之はそんなにへたな歌詠みだろうか?

 源実朝はそんなに優れた歌詠みだろうか?



正直に申し候へば万葉以来實朝以来一向に振ひ不申候。實朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存候。強ち人丸・赤人の余唾を舐るでもなく、固より貫之・定家の糟粕をしやぶるでもなく、自己の本領屹然として山岳と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、北条氏を憚りて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、實朝は全く例外の人に相違無之候。何故と申すに實朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物数奇連中や死に歌よみの公卿たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、實朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵は力を極めて實朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は實朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之候。(『歌よみに与ふる書』)



 私はまず子規の正直を疑う。「子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得た試しがない」と夏目漱石は子規を評価する。ただ『歌よみに与ふる書』はいささか言葉が過ぎる。千年の文学史を全否定するために、子規はどれほどの書を読んだだろうか。日記を見る限り、当時の詩歌については飛ばし読みである。投稿(投句)を読まねばならないので、それだけでも時間が足りない。『国歌大観』は一九〇一年から一九〇三年にかけて刊行された。一九〇二年に没した子規がそれを手にしたかどうかはわからないけれども、『国歌大観』を読まないで「万葉以来實朝以来一向に振ひ不申候」とまで断じてしまうのは、「正直」ではなく「嘘」である。

そもそも『万葉集』は日本最古の歌集と言われているが完成時期の不明なものであり、その読みも解釈もいまだに議論され続けられており、一子相伝の『古今伝授』を引き受けぬみであれば、手放しでほめることも軽率であろう。もし子規が有史以来という代わりに万葉以来と書いてしまったのならば、やはりそれは軽率である。日本最古の歌は『古事記』に見られる。

 さてそんな子規の実朝評はどれだけ正しいのであろうか。

 いや松尾芭蕉、賀茂真淵、小林秀雄、そして吉本隆明までを含めたビッグネームのお歴々の実朝評は本当に確かなものなのであろうか。

人に好みの違いがあるのは避けられないことではある。しかし私は実朝の歌の妙味も他の反面も十分に知らない。私は実朝が『新古今和歌集』までの本歌のバリエーションを丹念にこすり続けた挙句に定家から『万葉集』を貰った途端に破調を加え直した歌人だとは信じていない。どうも愉快な歌人だと記憶している。

太宰治の『右大臣実朝』を最初に読んだのはもうずいぶん前のことであるが、再読してやはり、厭味のユーモアと受け止めて大笑いして読んだことには何の作り事もない。私は実朝とはなんと愉快な歌人として描かれていることかと感心した。『金槐和歌集』を読むずっと前の記憶だ。

太宰の『右大臣実朝』の創作秘話は、なんと太宰自身の『鉄面皮』に詳しい。そこに現れる太宰の『右大臣実朝』に対する思い入れは相当なもので、仮に『鉄面皮』がユーモラスな作品だとしたら、『右大臣実朝』に対する思い入れを笑うしかない。「安心し給たまえ、君の事を書くのではない。」と始まるので、太宰はまた自分のことを書くつもりなのである。いやしかし、この華麗な太宰節を笑わないでいられようか。



作者の真意はどうあろうと、結果に於ては、汚い手前味噌になるのではあるまいか、映画であったら、まず予告篇とでもいったところか、見え透いていますよ、いかに伏目になって謙譲の美徳とやらを装って見せても、田舎っぺいの図々しさ、何を言い出すのかと思ったら、創作の苦心談だってさ、苦心談、たまらねえや、あいつこのごろ、まじめになったんだってね、金でもたまったんじゃないか、勉強いたしているそうだ、酒はつまらぬと言ったってね、口髭をはやしたという話を聞いたが、嘘かい、とにかく苦心談とは、恐れいったよ、謹聴々々、などと腹の虫が一時に騒ぎ出して来る仕末なので、作者は困惑して、この作品に題して曰いわく「鉄面皮」。どうせ私は、つらの皮が厚いよ。(『鉄面皮』)



これを読んで気が塞ぐという人がいるかもしれないけれども、私には愉快でたまらない。太宰程罵倒が上手な作家は他にあるまい。私は太宰をユーモアの天才だと信じている。『如是我聞』のひりひりする攻撃も「私は、くるりと振向いてその男に答える。」という一言で作品としては立体化する。単なる私信ではなくなる。『川端康成へ』の「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。」という果敢な一言を掘り返せばやはりユーモアが沸いてくる。この一言はどうも川端康成の『禽獣』を論っているが、『禽獣』は川端康成自身を辟易とさせる相当に心を病んでいる作品でもありつつ、川端の評価を引き上げることに貢献した佳作である。太宰の指摘は川端康成の真面目腐ったような「前略。――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった。」という嘘を暴いてユーモアに変えてしまう。川端康成に厭な雲が受け止められないのなら、誰が太宰を評価できるのかと心配してしまう。

川端康成が石川達三を褒めてもしょうがないじゃないか、と太宰は呆れている。この太宰の意見は圧倒的に正しいのではなかろうか。

太宰の『鉄面皮』に「勉強するよ、僕は。」という台詞がある。どうもこれは太宰らしき話者の台詞である。班長の勧めから、在郷軍人の分会査閲に戦闘帽をかぶり、巻脚絆をつけて参加した太宰が、査閲官の老大佐から激賞されて、人を欺いたような気分になって言う台詞である。



その時将軍家は、私の気のせいか少し御不快の様に見受けられました。しばらくは何もおっしゃらず、例の如く少しお背中を丸くなさって伏目のまま、身動きもせず坐って居られましたが、やがてお顔を、もの憂そうにお挙げになり、

学問ハオ好キデスカ

と、ちょっと案外のお尋ねをなさいました。

「はい。」と尼御台さまは、かわってお答えになりました。「このごろは神妙のようでございます。」

無理カモ知レマセヌガ

とまた、うつむいて、低く呟くようにおっしゃって、

ソレダケガ生キル道デス(『鉄面皮』)



太宰が『鉄面皮』の結末を預けた『右大臣実朝』の引用は、やはりお勉強にすがる人の姿が描かれている。太宰は生半可なお勉強を徹底的に笑い、生半可なお勉強自慢を徹底的に否定する。



なにせ、Dって野郎もたいしたものだよ。二三年前に逢った時には、足利時代と桃山時代と、どっちがさきか知らない様子で、なんだか、ひどく狼狽して居ったが、実朝を、ねえ、これだから世の中はこわいと言うんだ、何がなんだか、わかったもんじゃない、実朝を書きたいというのは余の幼少の頃からのひそかな念願であった、と言ったってね、すさまじいじゃないか、いよう! だ、気が狂ってるんじゃないか、あいつが酒をやめて勉強しているなんて嘘だよ、「源の実朝さま」という子供の絵本を一冊買って来て、炬燵にもぐり込んで配給の焼酎でも飲みながら、絵本の説明文に仔細らしく赤鉛筆でしるしをつけたりなんかして、ああ、そのさまが見えるようだ。(『鉄面皮』)



これが太宰の笑う生半可なお勉強である。『右大臣実朝』を書こうとする自分を笑っている。太宰には解かるのだ。生半可なお勉強では届かないものがあることを知っているのだ。また太宰は掴んだのだ。仔細らしい説明文が明かに書き漏らしていることに太宰は気がついたのだ。

だがそれに止まらない。

太宰は誰にも遠慮がない。



自分は、かつて聖書の研究の必要から、ギリシャ語を習いかけ、その異様なよろこびと、麻痺剤をもちいて得たような不自然な自負心を感じて、決して私の怠惰からではなく、その習得を抛棄した覚えがある。あの不健康な、と言っていいくらいの奇妙に空転したプライドの中に君たちが平気でいつも住んでいるものとしたら、それは或いは、あのイエスに、「汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども、云々」と言われても仕方がないのではないかと思われる。

勉強がわるくないのだ。勉強の自負がわるいのだ。

私は、君たちの所謂「勉強」の精華の翻訳を読ませてもらうことによって、実に非常なたのしみを得た。そのことに就いては、いつも私は君たちにアリガトウの気持を抱き続けて来たつもりである。しかし、君たちのこの頃のエッセイほど、みじめな貧しいものはないとも思っている。

君たちは、(覚えておくがよい)ただの語学の教師なのだ。家庭円満、妻子と共に、おしるこ万才を叫んで、ボオドレエルの紹介文をしたためる滅茶もさることながら、また、原文で読まなければ味がわからぬと言って自身の名訳を誇って売るという矛盾も、さることながら、どだい、君たちには「詩」が、まるでわかっていないようだ。

イエスから逃げ、詩から逃げ、ただの語学の教師と言われるのも口惜しく、ジャアナリズムの注文に応じて、何やら「ラビ」を装っている様子だが、君たちが、世の中に多少でも信頼を得ている最後の一つのものは何か。知りつつ、それを我が身の「地位」の保全のために、それとなく利用しているのならば、みっともないぞ。

教養? それにも自信がないだろう。どだい、どれがおいしくて、どれがまずいのか、香気も、臭気も、区別が出来やしないんだから。ひとがいいと言う外国の「文豪」或いは「天才」を、百年もたってから、ただ、いいというだけなんだから。

優雅? それにも、自信がないだろう。いじらしいくらいに、それに憧れていながら、君たちに出来るのは、赤瓦の屋根の文化生活くらいのものだろう。

語学には、もちろん自信無し。

しかし、君たちは何やら「啓蒙家」みたいな口調で、すまして民衆に説いている。

洋行。

案外、そんなところに、君たちと民衆とのだまし合いが成立しているのではないか。まさか、と言うこと勿れ。民衆は奇態に、その洋行というものに、おびえるくらい関心を持つ。(『如是我聞』)



ルーテル幼稚園を卒園した私より、太宰の方がイエス・キリストに親しんだとは思わないけれども、ここまで言われて怯まない人もあるまい。今さら実朝の歌に疑問を呈するような変わり者でもなければ、自分が「文豪」や「天才」を無条件に受け入れてきたことを認めざるを得ないのではなかろうか。

だが私は『右大臣実朝』のこんな箇所でつい噴き出してしまうのである。



将軍家は、恋のお歌を、そのころから、あまりお作りにならぬやうになりました。また、ほかのお歌も、以前のやうに興の湧くままにさらさらと事もなげにお作りなさるといふやうなことは、少くなりまして、さうして、たまには、紙に上の句をお書きになつただけで物案じなされ、筆をお置きになり、その紙を破り棄てなさる事さへ見受けられるやうになりました。破り棄てなさるなど、それまで一度も無かつた事でございましたので、お傍の私たちはその度毎に、ひやりとして、手に汗を握る思ひが致しました。けれども将軍家は、お破りになりながらも別段けはしいお顔をなさるわけではなく、例のやうに、白く光るお歯をちらと覗かせて美しくお笑ひになり、

コノゴロ和歌ガワカツテ来マシタ

などとおつしやつて、またぼんやり物案じにふけるのでございました。この頃から御学問にもいよいよおはげみの御様子で、問註所入道さま、大官令さま、武州さま、修理亮さま、そのほか御家人衆を御前にお集めなされ、さまざまの和漢の古文籍を皆さま御一緒にお読みになり熱心に御討議なされ、その御人格には更に鬱然たる強さをもお加へなさつた御様子で、末は故右大将家にまさるとも劣らぬ大将軍と、御ところの人々ひとしく讚仰して、それは、たのもしき限りに拝されました。(『右大臣実朝』)



コノゴロ和歌ガワカツテ来マシタ、と太宰が書けば、これはユーモア以外の何物でもないのではないのではないか。

一方『右大臣実朝』は『走れ、メロス』同様太宰らしからぬ真面目な作品で、太宰は子規同様実朝の歌の妙味も他の反面も理解しており、丁度三島由紀夫が定家卿について書きたいと望んでいたのと同じように、実朝について真剣に書いたのだ…と考えている人の方が圧倒的に多いように思う。寧ろそうではない人の声を聴いたことがない。

正岡子規に抗い、実朝を笑う人の話を聞いたことがない。

『走れ、メロス』には知れば大笑いせずにはいられぬ太宰の創作秘話がある。それを知ってから読むと『走れ、メロス』は実に面白い。

『右大臣実朝』研究は盛んだ。公開されている論文も膨大にある。ただ真面目過ぎる解釈ばかりが見つかる。『右大臣実朝』をユーモア小説として捉えた研究は見つからない。

それには二つの理由があろう。

①『右大臣実朝』は大変な時期に書かれた力作である。これが筆のすさびであろうはずもない。太宰は必死に書いた。

②実朝はキリストだというマニュフェストが、現代文化人の頭に染み込み過ぎているからである。

だが、この場面で笑ってはいけないのだろうか。



禅師さまは、ざぶざぶ海へはひつて行かれて唐船の船腹をおさぐりになつたので、私もそれに続いて海へはひつて禅師さまのなさるとほりに船腹をさぐつてみると、いかにも蟹が集つてゐる様子で、禅師さまは馴れた手つきで大きい蟹を一匹ひきずり出すが早いか船板にぐしやりとたたきつけて、砂浜へはふり上げ、あまりの無慈悲に私は思はず顔をそむけました。

「残忍でございます。およしになつたら、いかがです。」

私は砂浜へ引上げて来てしまひました。

「とらない人には、食べさせないよ。」禅師さまは平気でそんな事を言ひながらも船腹をさぐり、また一匹引きずり出して、ぐしやりと叩きつけて砂浜へはふり上げ、「蟹は痛いとも思つてゐません。」

それが五匹になつた時に、禅師さまは、低く笑ひながら砂浜へ上つて来られて、その甲羅のつぶれた蟹を拾ひ集めて、

「なんだ、今夜のはみんな雌か。雌の蟹は肉が少くてつまらない。焚火をしよう。少し手伝つて下さい。」

私たちは小枝や乾いた海草など拾ひ集めました。五匹の蟹を浅く砂に埋めてその上に小枝や海草を積み重ねて火を点じ、やがてその薪の燃え尽きた頃に、砂の中から蟹を拾ひ上げられて、

「食べなさい。」

「いや、とても。」

「それでは私がひとりで食べる。私は蟹が好きなんだ。どうしてだか、ひどく好きなんだ。」おつしやりながら、器用に甲羅をむいてむしやむしや食べはじめて、ほとんど蟹に夢中になつていらつしやるやうに見えながら、ふいと、「死なうかと思つてゐるんだ。」

「え?」私は、はつとして暗闇の中の禅師さまの顔を覗き込みました。けれども、こんどは蟹の脚をかりりと噛んで中の白い肉を指で無心にほじくり出し、いまはもう蟹の事の他は何も考へていらつしやらぬ御様子で、さうして、しばらくして、またふいと、

「死なうと思つてゐるのです。死んでしまふんだ。」さうして、また、かりりと蟹の脚を齧つて、「鎌倉へ来たのが間違ひでした。こんどは、たしかに祖母上の落度です。私は一生、京都にゐなければならなかつたのだ。」(『右大臣実朝』)



これはどうしても人を笑わせようとする太宰の仕掛けである。ここで蟹を持ち出すのが太宰である。

この場面を読めば、どうしても『津軽』を思い出さずにはいられない。



蟹田、蓬田、平館、一本木、今別、三厩、つまり外ヶ浜の部落全部が、ここの警察署の管轄区域になつてゐる。竹内運平といふ弘前の人の著した「青森県通史」に依れば、この蟹田の浜は、昔は砂鉄の産地であつたとか、いまは全く産しないが、慶長年間、弘前城築城の際には、この浜の砂鉄を精錬して用ゐたさうで、また、寛文九年の蝦夷蜂起の時には、その鎮圧のための大船五艘を、この蟹田浜で新造した事もあり、また、四代藩主信政の、元禄年間には、津軽九浦の一つに指定せられ、ここに町奉行を置き、主として木材輸出の事を管せしめた由であるが、これらの事は、すべて私があとで調べて知つた事で、それまでは私は、蟹田は蟹の名産地、さうして私の中学時代の唯一の友人のN君がゐるといふ事だけしか知らなかつたのである。私がこんど津軽を行脚するに当つて、N君のところへも立寄つてごやくかいになりたく、前もつてN君に手紙を差し上げたが、その手紙にも、「なんにも、おかまひ下さるな。あなたは、知らん振りをしてゐて下さい。お出迎へなどは、決して、しないで下さい。でも、リンゴ酒と、それから蟹だけは。」といふやうな事を書いてやつた筈で、食べものには淡泊なれ、といふ私の自戒も、蟹だけには除外例を認めてゐたわけである。私は蟹が好きなのである。どうしてだか好きなのである。蟹、蝦、しやこ、何の養分にもならないやうな食べものばかり好きなのである。それから好むものは、酒である。飲食に於いては何の関心も無かつた筈の、愛情と真理の使徒も、話ここに到つて、はしなくも生来の貪婪性の一端を暴露しちやつた。

蟹田のN君の家では、赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のやうに積み上げて私を待ち受けてくれてゐた。(『津軽』)



何かこれという証拠があるわけではないが、三島由紀夫の大袈裟な蟹嫌いは太宰由来のものではないかと私は信じている。その理由としては、三島は蟹の味が嫌いなのではなく蟹という文字が嫌いなので、蟹という文字で蟹を嫌いになったという理屈による。三島由紀夫以前の日本文学において最も蟹という文字を多用したのは『津軽』である。小林多喜二の『蟹工船』に「蟹」の文字は49回登場するが、『津軽』では83回登場する。

これほど蟹という文字を多用した作品が他にあるだろうか。三島は『津軽』を読み、『右大臣実朝』を読み、そして蟹嫌いを演じるようになり、いつか定家卿のことを書きたいと嘯くようになったのではなかろうか。


『金槐和歌集』を眺めれば



今朝みれば山も霞て久方のあまの原より春は来にけり


改めて『金槐和歌集』を開いてみると、不意打ちを食わされる。

本歌「み吉野は山も霞てしら雪のふりにし里に春は来にけり(新)」と比較すれば何か際立った工夫があるとは言い難い。「久方のあまの原」に意があるとして、遠いところから春が来るとはどういうことか。山と里との比較をした元歌のダイナミックスが観念に没している。とげとげしいところがないだけで、何が良いと褒め難い。


九重の雲井に春ぞ立ちぬらし大内山に霞たなびく


これは本歌「ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく(新)」と比較して、より視覚的にしようとして破綻していると言ってもよいであろう。九重の雲井が霞んでは何が雲か霞か解るまい。とげとげしくはないだけで、絵面はほんやりしている。


山里に家ゐはすべし鶯のなく初こゑのきかまほしさに


本歌「あずさ弓春山ちかく家居して絶えず聞きつる鶯のこゑ(新)」「初こゑのきかまほしさに時鳥夜深く目をさましつるかな(拾)」が瞬間をらえているのに対して、観念に陥っている。とげとげしくはないかわりに三十一文字が浪費されている。


うちなびき春さりくればひさぎ生ふるかた山かげに鶯ぞなく


本歌「うちなびき春さりくれば笹のうれに尾羽うちふれて鶯なくも(万)」「ひさぎおふる片山かげにしのびつつ吹きけるものを秋のはつ風(新)」だとして…「ひさぎ」は秋の季語である。万葉集を入れたとしても、大人しい。


かきくらし猶ふる雪の寒ければ春ともしらぬ谷の鶯


本歌「かきくらし猶ふるさとの雪の中に跡こそ見えね春はきにけり(新)」「山ふかみ春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水(新)」の掛詞を台無しにしている。この歌も意味を小さくしている。


春はまづ若菜つまむと占めおきし野辺とも見えず雪のふれれば


本歌「あすからは若菜つまむとしめし野に昨日もけふも雪はふりつつ(新)」「わがせこに見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪のふれれば(万)」これはとげとげしい。しかし「触れれば」では意味不明となる。


大かたに春のきぬれば春霞四辺の山辺に立ちみちにけり


春、春霞と煩い。しかしとげとげしくはない。もし永遠の命があればこれから全部を調べても良いが、この度はこれくらいにして話を先に進めよう。つまり、賀茂真淵、正岡子規が持ち上げる≪万葉風≫の歌が極端にとげとげしいのだ。そのことは太宰も気が付いていた。



前にもくどいくらゐ申し上げましたが、将軍家のお歌はいつも、あからさまなほど素直で、俗にいふ奥歯に物のはさまつたやうな濁つた言ひあらはし方などをなさる事は一度もなかつたのでございます。この時お二方の間に、何か御密約が成立したのではなからうか、などとひどく凝つた推察をなさるお人さへあつたやうでございますけれど、それなら、将軍家の方からも機を見てひそかに御返書を奉るべきでございまして、何もことさらに堂々とお歌を作り、御身辺の者にも見せてまはるなどは、とんでもない愚かな事で、ばからしいにも程がございます。そのやうな、ややこしい理由など、一つも無いのでございます。大君への忠義の赤心に、理由はございません。将軍家に於いても、ただ二念なく大君の御鴻恩に感泣し、ひたすら忠義の赤誠を披瀝し奉らん純真無垢のお心から、このやうなお歌をお作りになつたので、なんの御他意も無かつたものと私どもには信ぜられるのでございます。御胸中にたとひ幽かにでも御他意の影があつたら、とても、このやうに高潔清澄の調べが出るものではございませぬ。(『右大臣実朝』)



太宰がこのように語る時、そのまま信用してはならない

太宰は明らかにまがまがしい歌を選んで『右大臣実朝』に登場させた。



 オホキミノ勅ヲカシコミ千々ワクニ心ハワクトモ人ニイハメヤモ

 ヒンガシノ国ニワガヲレバ朝日サスハコヤノ山ノカゲトナリニキ

 山ハサケ海ハアセナム世ナリトモ君ニフタ心ワガアラメヤモ



これが正真正銘・源実朝の歌そのままだと断られても、正直私には煩い。いくらなんでも破調に過ぎ、「ワクニ」「ワクトモ」「メヤモ」「メヤモ」「ワガ」「ワガ」が煩い。

そしてそもそも「ヒンガシノ国ニワガヲレバ朝日サスハコヤノ山ノカゲトナリニキ」はどういう意味と解したのだろうか。

東国に私がいたら、朝日がさす上皇の御所が影になってしまった、という意味だろうか。

まるで将校様の仮住まいを見下ろすクラッシィハウス高輪の最上階に引っ越した人のような言い分だ。

二心なき者が高輪の仙洞御所を影にするものだろうか。

オホキミノ勅ヲカシコミ千々ワクニ心ハワクトモ人ニイハメヤモ、だって可笑しい。

「大君の命令で心は千々に湧くのだが、人には言うのだろうか、言わないなあ…」…。言っている。

山ハサケ海ハアセナム世ナリトモ君ニフタ心ワガアラメヤモ、「山は裂けて海が褪せた世となっても、大君に二心は、僕にはあるだろうか、いやないよなあ…」完全に「ワガ」が余計である。

出鱈目を書いているつもりはない。太宰はわざとこんな歌を引いたのだ。文学に関して太宰には誰に対しても何の遠慮もない。太宰が実朝を書きたいと思ったとしたら、それが面白いモチーフだと認めたからにほかならない。立派だからメロスを書こうなどと太宰が考える訳はない。石川達三が『走れメロス』を書いたらもう少し真面目腐ったものになったのではなかろうか。



老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、

「おや、月見草。」

さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。

三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。(『富嶽百景』)



これが太宰だ。

その太宰は昭和十八年に『右大臣実朝』を書いた。



昭和十八年に「右大臣実朝」という三百枚の小説を発表したら、「右(ユ)大臣(ダヤジン)実朝」というふざけ切った読み方をして、太宰は実朝をユダヤ人として取り扱っている、などと何が何やら、ただ意地悪く私を非国民あつかいにして弾劾しようとしている愚劣な「忠臣」もあった。(『十五年間』)



ここで忠臣という言葉が皮肉に用いられていることは否定できない。実際『右大臣実朝』は皮肉な忠臣の記述である。



別の蟹の甲羅をむいて、むしやむしや食べて、「叔父上は私の山師を見抜いてゐる。陳和卿と同類くらゐに考へてゐる。私は、きらはれてゐる。さうして私だつて、あの田舎者を、冠つけた猿みたいに滑稽なものだと思つてゐるんだ。あはは、お互ひに極度に、さげすみ合つてゐるのだから面白い。源家は昔から親子兄弟の仲が悪いんだ。ところで将軍家は、このごろ本当に気が違つてゐるのださうぢやないか。思ひ当るところがあるでせう。」

私は、ぎよつと致しました。

「誰が、いや、どなたがそのやうなけしからぬ事を、――」

「みんな言つてゐる。相州も言つてゐた。気が違つてゐるのだから、将軍家が何をおつしやつても、さからはずに、はいはいと言つてゐなさい、つて相州が私に教へた。祖母上だつて言つてゐる。あの子は生れつき、白痴だつたのです、と言つてゐた。」

「尼御台さままで。」

「さうだ。北条家の人たちには、そんな馬鹿なところがあるんだ。気違ひだの白痴だの、そんな事はめつたに言ふべき言葉ぢやないんだ。殊に、私をつかまへて言ふとは馬鹿だ。油断してはいけない。私は前将軍の、いや、まあ、そんな事はどうでもいいが、とにかく北条家の人たちは根つからの田舎者で、本気に将軍家の発狂やら白痴やらを信じてゐるんだから始末が悪い。あの人たちは、まさか、陰謀なんて事は考へてゐないだらうが、気違ひだの白痴だのと、思ひ込むと誰はばからずそれを平気で言ひ出すもんだから、妙な結果になつてしまふ事もある。みんな馬鹿だ。馬鹿ばつかりだ。あなただつて馬鹿だ。叔父上があなたを私のところへ寄こしたのは、淋しいだらうからお話相手、なんて、そんな生ぬるい目的ぢやないんだ。私の様子をさぐらうと、――」

「いいえ、ちがひます。将軍家はそんないやしい事をお考へになるお方ではございませぬ。」

「さうですか。それだから、あなたは馬鹿だといふのだ。なんでもいい。みんな馬鹿だ。鎌倉中を見渡して、まあ、真人間は、叔父上の御台所くらゐのところか。ああ、食つた。すつかり食べてしまつた。私は、蟹を食べてゐるうちは何だか熱中して胸がわくわくして、それこそ発狂してゐるみたいな気持になるんだ。つまらぬ事ばかり言つたやうに思ひますが、将軍家に手柄顔して御密告なさつてもかまひません。」

「馬鹿!」私は矢庭に切りつけました。

ひらりと飛びのいて、

「あぶない、あぶない。鎌倉には気違ひがはやると見える。叔父上も、いい御家来衆ばかりあつて仕合せだ。」さつさと帰つておしまひになりました。

闇の中にひとり残されて、ふと足許を見ると食ひちらされた蟹の残骸が、そこら中いつぱいに散らばつてゐるのがほの白く見えて、その掃溜のやうな汚なさが、そのままあの人の心の姿だと思ひました。翌る日、御ところへ出仕して、昨夜、僧院へお話相手にお伺ひした事を言上いたしましたところが、将軍家に於いては、ただ軽く首肯かれただけで、別にその時の様子などを御下問なさるやうな事もなく、かへつて私のはうから、

「禅師さまには、ふたたび京都へおいでになりたいやうな御様子でございました。」と要らざる出しやばり口をきいたやうな次第でございましたけれども、将軍家はちよつとお考へになつて、それから一言、

ドコヘ行ツテモ、同ジコトカモ知レマセン。



これはどう読んでも偉い人たちを馬鹿にしている話としか思えない。実朝は右大臣になる否や公暁に殺されてしまう。

では一体、太宰はどういう意図から『右大臣実朝』を書いたのだろうか。

実朝は太宰の憧れだ、三島由紀夫にとっての藤原定家だと信じている人がいたとして、そういう意見には全く感心しない。



読者、果して興を覚えたであろうか。私は、諸君に、告白しなければならぬ。これは、必ずしも、故人の日記、そのままの姿では無い。ゆるして、いただきたい。かれが天稟の楽人ならば、われも不羈の作家である。七百頁の「葛原勾当日記」のわずかに四十分の一、青春二十六歳、多感の一年間だけを、抜き書きした形であるが、内容に於おいて、四十余年間の日記の全生命を伝え得たつもりである。無礼千万ながら、私がそのように細工してしまった。勾当の霊も、また、その子孫のおかたも、どうか、ゆるしていただきたい。作家としての、悪い宿業が、多少でも、美しいものを見せられた時、それをそのまま拱手観賞していることが出来ず、つい腕を伸ばして、べたべた野蛮の油手をしるしてしまうのである。作家としての、因果な愛情の表現として、ゆるしてもらいたいのである。美しければこそ、手も、つけたくなったのだ。ただならぬ共感を覚えたから、こそ、細工をほどこしてみたくなったのだ。そこに記されてある日々の思いは、他ならぬ私の姿だ。「こまつやの、おかや」との秘めたる交情も、不逞の私の、虚構である。それは、私に於ては、ゆるがぬ真実ではあっても、「葛原勾当日記」原本に於ては、必ずしも、事実で無い。はっきりした言いかたをするなら、それは、作家の、ひとりよがりの、早合点に過ぎぬだろう。けれども私は、意識して故勾当を、おとしめようとした覚えは無い。つねに故人の、一流芸者としての精神を、尊重して来たつもりである。あとで、いざこざの起らぬよう、それだけを附記する。

かきならす。おとをだに聞かば。このさとに。わがすむことを。きみや知るらむ。(勾当)

(『盲人独笑』)



私は一貫して『右大臣実朝』を『盲人独笑』や『一つの約束』あるいは『火の鳥』となんら変わらぬ太宰の御し難さが現れている作品だと信じている。太宰は川端康成に文句を言おうとしてもつい話を面白くしてしまう書き手であり、戦後最も早く天皇万歳と叫んで、三島由紀夫を驚かせた作家である。

三島由紀夫は太宰治の天皇陛下万歳を真似するまでに二十五年もかかった。自分のブロンズ像を建てよと遺書に書いたが、今ブロンズ像があるのは太宰治。太宰は実朝を書いたが、三島はついに定家を書けずにしまった。太宰が好きな蟹を、三島はその文字が嫌いだといささか過剰演技する。「伝統とは、自信の歴史であり、日々の自恃の堆積である。日本の誇りは、天皇である。日本文学の伝統は、天皇の御製に於いて最も根強い。」と書いた作家は三島由紀夫か太宰治か?

三島由紀夫はおしるこ万歳も真似しており、そのシンジューのような死と言い、最後まで何とか太宰治を面白くしようと腐心した作家だと言えるかもしれない。

一方、太宰は好きに書きまくったと考えるべきだろう。後に三島由紀夫が定家卿について書きたいと言い出すとは考えても仕方ない。

では、太宰は本当に実朝の歌が良いと思っていたのだろうか。私にははなはだ疑問である。そして子規は本当に実朝を認めていたのだろうか。また紀貫之はへたな歌詠みだったのだろうか。また子規は『歌詠みにあたふる書』を書く事ができるような立場にあっただろうか。『歌詠みにあたふる書』は例えるならは俊成が定家に与える歌論のようでさえある。圧倒的な権威が弟子に教えを諭すかのような書きっぷりである。もし、このようなものを駆け出しの歌人が書けば、頭が可笑しいのかと思われて当然である。



考えてみると私も、ずいぶん思いあがった乱暴な事を書いたものである。芭蕉、凡兆、去来、すべて俳句の名人として歴史に残っている人たちではないか。夏の一夜の気まぐれに、何かと失礼に、からかったりして、その罪は軽くない。急におじけづいて、この一文に題して曰く、「天狗」。

夏の暑さに気がふれて、筆者は天狗になっているのだ。ゆるし給え。(『天狗』)



太宰はそう謙遜してみせるが子規には遠慮がない。ただし子規は当時の俳諧番付には登場せず、評価を受けていたわけではない。革命家であり勝利し、後に俊成、定家、芭蕉に次ぐ現在の位置を得たが、まるで俊成がごとき高みから書かれた歌論は当時としては天狗の諸行である。実朝の『金槐和歌集』も多くは『新古今和歌集』のパロディであり、あまり工夫の見られないものも多い。どう評価していいものか迷う歌が多い。『万葉集』と『新古今和歌集』をミックスした歌が破調となると、途端に子規は喜んだのだろうか。そうであれば子規の正当な継承者は碧梧桐ということにもなろうかと思うが、実際には虚子の末裔が伝統俳句を継承している。この現実は何を意味しているのか。

今、万葉調の句を投稿しても伝統俳句の結社が採ることはない。

それは誰もが既成の文学に噛みつき、のし上がらなければならないと吼えた子規の若さと無理と野心を許してきたからではなかろうか。

太宰の『天狗』『右大臣実朝』『鉄皮面』の正直なユーモアを前にして、われわれはもう一度子規のはったりを疑ってみるべきではなかろうか。


三島由紀夫の辞世の句


三島由紀夫の辞世の句が不出来であることについて、今まで筋の通る説明を見聞きしたことはない。


益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜


この歌の意味を素直に解釈すると「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の」までが序で「初霜であることよ」と詠ったのであり、



 朝まだきちまたをつつむ秋の霧追いゆく人の姿消えゆく

(『資料 三島由紀夫』/p.101)



…は「朝まだきちまたをつつむ秋の霧追いゆく人の姿」までが序で歌の意は「消えゆく」ということになる。


散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐


においては「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜」までが序で、「嵐であることよ」という意味だとからかわれても仕方ないとわきまえていたのではなかろうか。(実際は神風連の本歌取りである。)


実際この二つの歌は、からかわれるという程度の意味ではなく、前置きが長い構成になっている。

まず「もとのこころ」、有心に鑑みれば「太刀の鞘鳴り」がくどいことには誰でもが気が付くことだろう。太刀がいらない。益荒男も「たばさむ」もいらない。遠白きところを求めれば、まさに「今日の初霜」だけで良い。それだけしか残らない。大体自分のことを益荒男と呼んでどこがみやびなのだろうか。拉鬼体の間違った解釈でもあるのかと考えてしまう。

また「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と」は冗談でも何でもなく「ながながし序」である。「散る」が二度繰り返されているのは『古来風躰抄』を盾にすれば病とされてはいるが、漢詩の影響であり「避りあふべきこととも見え侍らず」とは言えようが、やはり諄い。『俊頼髄脳』では「はじめの五文字のはじめの文字と、つぎの七文字のはじめの文字と同じきを、古き髄脳に岸樹の病といへり。これぞなほ避るべき事なり」とあるが、これは字といいながら音なので耳障り、全く同じ字はやはり煩く感じられる。

それにしても、三島由紀夫の経験から考えれば、このくらい杜撰な辞世の歌はあるまい。全く冗談としか思えない。

荷田在満の『国歌八論』にならって三島の辞世の句を批判してもつまらないが、ここには明確におかしなものが含まれていることを指摘しておこう。『国歌八論』では例えば、天智天皇の歌として知られている「秋の田のかりほの廬の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」の歌について、嵯峨中院の障子の歌だとして、「廬を作るに穂を苅りて作るといふ事あるべからず」とか「つつ」を受ける詞がないと注文を付けている。(『国歌八論』/『歌論集 日本古典文学全集50』/小学館/昭和五十年/p.551)

そういう理屈で言えば三島の歌はおかしなものだ。

まず「益荒男」が自分のことだとしたら、馬鹿である。強がろうとするモラルの復活だとしても、農家の二三男の辞世の句の真似だとしてもやはり馬鹿である。また太刀は「たばさむ」ものではない。細矛(クハシホコ)の二三本もあれば「たばさむ」でよい。一本を持つのならば、「たづさふ」「ひきぐす」「ひさぐ」または「はく」「さぐ」でよい。

そして笑ってしまうのが「幾とせ」だ。自衛隊の訓練に耐えて四年である。もし「これだけ長い時間を耐えたんだよ」という意味なら、千五百秋とか千歳とでも言いたいところ。しかし四年では千年とは言えない。「耐へて」も「我慢して」という意味なら「敢へて」「堪へて」なのだが、「鞘鳴りに耐える」という意味が解らない。鞘鳴りという言葉には二つの意味があり一つは「敵を攻めるときに、心がはやること」である。自衛隊は敵だろうか? 家族ではなかったのか。

三島は一体誰を切りに行ったのだろうか。

鞘鳴りのもう一つの意味は「刀身が鞘に合わず、振ると音がすること」である。こちらの方がむしろ意味が通る。譲り受けた関の孫六を軍刀に直したからではない。三島の弐心がこの鞘鳴りに込められているという解釈が成り立つように思えるからだ。刀身が鞘に合わないとは、楯の会の制服に身を包んだ三島の混乱を表現してはいないものだろうか。そして十一月二十五日に霜は降りないだろう。


益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜


この御歌は理りが弱くうつけている。

あえて解釈すると「森田の様な頑張り屋が手で挟んで持っている太刀をガタガタ鳴らして、先生、いつ死にますか、と脅し続けるのに耐えて耐えて、ようやく今日、初めて下の遊びをすることができた」という意味だろうか。あるいは益荒男は自衛隊で鞘鳴りは弐心ではなく違憲の国軍がきしみ合う音なのだろうか。そうなると「自衛隊が両手で挟んで持っているたいそうな太刀は鞘と刀身が合わないでギシギシ鳴っているけれども、ずっと我慢してきた。そしてようやく今日、二・二六事件の青年将校たちが踏んだ春の雪の代わりに、初霜を踏みしめて進もうではないか」という意味であろうか。まさか「僕は荒々しい男でね、敵を攻めようとして機会を伺ってずっと待っていた。そしてようやく今日その機会を得ましたよ。神風連のようにね」などいう意味ではなかろう。

あらかじめ用意されていたものだとしても計画があったのだから昼に「小夜嵐」はない。昼に死ぬ予定だったのだから、完全に間違いだ。しかしこれが観念の男三島の陥穽そのものである可能性が全くないわけではない。昼は「ひ」「ひのうち」「ひるつかた」「ひるなか」「あかひる」「ひるさがり」と案外雅語に乏しい。だからしょうがなく小夜嵐と書いた可能性がなくはない。表現が事実を曲げても雅語を使い、詞を飾りたかったのだ。

それに秋に散るのが花というのは、なんとも…。これが春に散るべき桜が秋に散ってしまったことだよ、という趣ならば、『天人五衰』が半年は急かされたと見做す私の見解と一致するのだが、それは深読みというべきだろうか。

また小夜嵐に追い込まれて散るのだというニュアンスが、城山の西郷のようで面白いとも言えよう。また字余りで始まり体言の五文字、二字足らずで終わる歌はいかにも末なだらかならぬ歌であり、五文字こはき歌である。


散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐


これも敢えて解釈すると「世間も人も死にたくないといっているところをさっさと死んでこそ花だとやかましく言われることであるよ」という意味であろうか。まさか「みんながなかなか死なないところで、僕はさっさと死んで格好いいでしょうという感じで今夜ちょっとした騒ぎがあるよ」という意味ではなかろう。

三島の辞世の句はとにかくわざとへたくそにでたらめに詠んだとしか思えない代物なのだ。

この歌をドナルド・キーンが訳している。


散るをいとふ   Storm winds at night blow

世にも人にも   The message that to fall before

さきがけて The world and before men

散るこそ花と By whom falling is dreaded

咲く小夜嵐 Is the mark of a flower


益荒男が     For how many years

たばさむ太刀の Has the warrior endured

鞘鳴りに   The rattling of

幾とせ耐へて   The sword he wears at his side

今日の初霜 The first fall of frost came today


(『思い出の作家たち 谷崎・川端・三島・安部・司馬』/ドナルド・キーン/新潮社/2005年/p.73~74)


キーンの訳はいささかTheがうるさいが、それは三島の歌の堅いところを表現しようという試みだろうか。The rattling ofの破調は小夜嵐の方の雰囲気を初霜の方にシフトしたものだろうか。

そして面白いことにキーンはrattlingとして鞘鳴りの意味をガタガタに採る。武者震いのような解釈をしたのだろうか。そういう解釈でしか救えないことにキーンなら気が付いていたのであろう。

そしてなんの根拠もない妄想を加えてしまおう。

三島の辞世の句はとても定家に憧れた雅なものではなく、万葉調のものでもある。「ますらをの さつやたばさみ たちむかひ いるまとかたは みるにさやけし」と似ていると言えば似ている。定家に憧れる三島という構図があまりにも自然なので、三島が最後に万葉調に遊んだとは想像しがたい。まさか太宰に実朝を取られたので、定家のことを書きたいと言っていたが、つい最後には太宰の憧れであった実朝に寄ってみた…とは想像しがたいが最後に三島がおしるこ万歳の太宰に同調し、自分が太宰と一緒だと認めたことは事実である。


太宰治はイエス・キリストだ


実朝はイエス・キリストだ、という解釈がデッドコピーされ続けて堆積されている。『駆け込み訴え』をその根拠とするのなら、太宰自身がイエス・キリストを気取っていたということになりかねないと思うが果たしてどうであろうか。

太宰は恥を知る恥ずかしがり屋だ。相手が自分をどう見ているのかひどく気になる。見透かされていることが恥ずかしい。太宰は文豪でも博士でもない。



私から見れば青二才だ。私がもし居らなかったらあの人は、もう、とうの昔、あの無能でとんまの弟子たちと、どこかの野原でのたれ死じにしていたに違いない。「狐には穴あり、鳥には塒、されども人の子には枕するところ無し」それ、それ、それだ。ちゃんと白状していやがるのだ。ペテロに何が出来ますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、脊筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、馬鹿な奴らだ。その日のパンにも困っていて、私がやりくりしてあげないことには、みんな飢え死してしまうだけじゃないのか。私はあの人に説教させ、群集からこっそり賽銭を巻き上げ、また、村の物持ちから供物を取り立て、宿舎の世話から日常衣食の購求まで、煩をいとわず、してあげていたのに、あの人はもとより弟子の馬鹿どもまで、私に一言のお礼も言わない。お礼を言わぬどころか、あの人は、私のこんな隠れた日々の苦労をも知らぬ振りして、いつでも大変な贅沢ぜいたくを言い、五つのパンと魚が二つ在るきりの時でさえ、目前の大群集みなに食物を与えよ、などと無理難題を言いつけなさって、私は陰で実に苦しいやり繰りをして、どうやら、その命じられた食いものを、まあ、買い調えることが出来るのです。謂いわば、私はあの人の奇蹟の手伝いを、危い手品の助手を、これまで幾度となく勤めて来たのだ。私はこう見えても、決して吝嗇の男じゃ無い。それどころか私は、よっぽど高い趣味家なのです。私はあの人を、美しい人だと思っている。私から見れば、子供のように慾が無く、私が日々のパンを得るために、お金をせっせと貯たっても、すぐにそれを一厘残さず、むだな事に使わせてしまって。けれども私は、それを恨みに思いません。あの人は美しい人なのだ。私は、もともと貧しい商人ではありますが、それでも精神家というものを理解していると思っています。だから、あの人が、私の辛苦して貯めて置いた粒々の小金を、どんなに馬鹿らしくむだ使いしても、私は、なんとも思いません。思いませんけれども、それならば、たまには私にも、優しい言葉の一つ位は掛けてくれてもよさそうなのに、あの人は、いつでも私に意地悪くしむけるのです。(『駆け込み訴え』)

 


太宰にはこのような振舞があったことはよく知られていよう。井伏鱒二ほか、ありとあらゆる周囲の人達に助けられ、太宰治は生きていた。太宰は一人では生活できなかっただろう。その太宰はキリストようだと揶揄われてみる自分を笑ってみようと思いついた。

太宰が自分をキリストとまでは思い上がってはいまいという人は、太宰を解かっていない。太宰は己の身の丈を知らぬのではない。キリストであろうが、川端康成であろうが、そのその身の丈が解る作家なのである。誰であれ、何であれ、笑ってみせる箆棒な作家なのである。その証拠に戦争が済むや否や、いち早く「天皇陛下万歳」と天皇を笑って見せた。お気の毒で同情すると見せかけて、まださして安全ではない状況下で「天皇陛下万歳」という猛烈なジョークを放ってみせる。三島由紀夫がその真似をするのはずっと後の事である。

太宰治は箆棒だ。遠慮も買いかぶりも出来ない病気なのである。

太宰を愉しませるために酒を買いに行く女、太宰を愉しませるために、肴を用意する女、そういう者に支えられて太宰は生きていたと伝えられる。しかし人と人とのつながりは文芸批評の範疇を超える。私はここでは控えめに太宰にはそういうところがあったという前提に留めよう。

しかしこのようにして太宰をキリストに持ち上げてしまうと、キリストに持ち上げられていた実朝の無邪気も途端に怪しくなる。

あるいは日本文学史全体が怪しくなる。

芭蕉から吉本隆明まで、誰が何を読んで来たのか?

俊成と定家の間で譲り渡される権威、歌合せの判と選集者たることによる権威の確立、それが点取り俳諧という読み人知らずの時代を経て、子規は実朝までさかのぼろうとした。

実朝の歌がみな不出来で下らないと私は思わない。

ただ『右大臣実朝』は『駆け込み訴え』と同じ構造を持っており、実朝がイエス・キリストだとして、太宰は実朝の面白さ、イエス・キリストの残酷さを描いていることは間違いない。




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