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「ふーん」の近代文学⑲ 三島由紀夫の時代


 私の文学の表現しようと企ててゐるものが「時代」とその意味であるとここに書いたら、……そう書きはじめられる三島由紀夫の『私の文学』は、案外真面目にこう結論する。

 さういふ抽象性、——いささか私の独断に従へば時代のといふものの本質であるかもしれぬこの抽象性——を基礎にして、純粋小説を考へることにより、いままでの純粋小説の主張が時代といふものに常に投げねばならなかつた決別の辞とことかはつて、文学、また小説が純粋であればあるほど時代の全き投影、時代のもつとも正確な投影であるといふ主張を成立させることができるのではないか。私はこの独断にみちた主張を証明しうるだけの作品を書きたいとねがわぬ日はない。ねがわくば私の今後の作品の上に、一羽の黒き不吉の蝶よ、たえずその行方定めぬ飛翔の影を落としてあれ。

(『私の文学』『決定版三島由紀夫全集27巻』新潮社2004年)

 この初出が昭和二十三年三月。まだ三島由紀夫は大蔵省に務めて短篇小説や『盗賊』を書いていた。この年の六月十九日に太宰治は玉川上水で入水自殺を遂げる。河出書房から書下ろし長編小説の依頼を受けた三島由紀夫は九月二日に大蔵省を辞め、そして『仮面の告白』を書くことになる。

 では果して『仮面の告白』が「もつとも正確な投影である」かどうかの判別の前に、三島由紀夫の純粋小説への思いに至る文学観を確認しておかねばなるまい。『私の文学』においてまず一羽の黒き不吉の蝶と表現されたものは抽象化された「時代の悩み」である。日本文学はプロレタリア文学と風俗小説に分かれた。これらが捉える「時代」に対して、三島の一羽の黒き不吉の蝶は超時代的でもある一個の苦悩である。

 超時代的時代の本質と云うものを三島由紀夫は「人妻に童貞を疑われる恐怖」として切り出した。

それにしても戦闘機の空中戦では敵味方どちらが墜落しても歓声の湧く見物であり、終戦が結婚を強いられかねない恐るべき日常生活の始まりであるという見立ては、結果として単なる同性への情欲を描くことよりも痛切な戦争批判になっている。

 その立場ではどうやっても被害者ぶりはできず、「傷つけられた世代」にもなれないという設定を、三島由紀夫は同性愛というひどく個人的な事情によって作り出した。

 私の夢みる「新しき人間」の一典型。
 歴史の悲劇性を今日の日常生活の倫理にまで導入し、それを「ヘルマントドロテア」的な永遠の日常生活を描破した作品の健康にして強烈な裏附けとなしうる人。

(『反時代的な芸術家』『決定版三島由紀夫全集27巻』新潮社2004年)

 ここで引き合いに出される『ヘルマンとドロテーア』は1797年ゲーテの作で、いわばフランス革命下における『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』みたいな、ある意味村上春樹的作品だ。

 歴史性の最も重要な要件は反時代性だ。これによって歴史が歴史を超え、現実生活の永遠の一典型を生み出すのである。

(『反時代的な芸術家』『決定版三島由紀夫全集27巻』新潮社2004年)

私の夢みる「新しき倫理」の一典型。
芸術作品を実生活上の倫理と考へた中世的な芸術家精神の復活。

(『反時代的な芸術家』『決定版三島由紀夫全集27巻』新潮社2004年)

『反時代的な芸術家』の初出は昭和二十三年九月、原稿は八月一日に記された。三島由紀夫が作家と官僚の二重生活でふらふらになって線路に落ちた前後に書かれたものである。ここで中世的な芸術家精神の復活と言われたものは確かに『仮面の告白』に現れた。

 どういうわけか三島由紀夫の『仮面の告白』の表紙にはこけし染みた、抽象的な人物像が描かれた。そこには観念の空中戦に悩み続ける頭でっかちの若者しか存在していないかのようだ。背景がない。純粋と云えばこれほど純粋な小説はなかろうし、極めて私的な小説だと言えなくもない。三島由紀夫は戦闘機の空中戦を「ふーん」して、確かに時代の本質を描いたのだ。戦争を「ふーん」するべきものとして捉えた。この時代感覚はまさに太宰的である。

 注射がきいたのか、どうか、或あるいは自然に治る時機になっていたのか、その病院にかよって二日目の午後に眼があいた。
 私はただやたらに、よかった、よかったを連発し、そうして早速、家の焼跡を見せにつれて行った。
「ね、お家が焼けちゃったろう?」
「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している。
「兎うさぎさんも、お靴も、小田桐おだぎりさんのところも、茅野ちのさんのところも、みんな焼けちゃったんだよ。」
「ああ、みんな焼けちゃったね。」と言って、やはり微笑している。

(太宰治『薄明』)

 夏目漱石の則天去私が自分の子供がめっかちになっても「ふーん」できる境地だとしたら、太宰治は空襲の方を「ふーん」して私にへばりついている。三島由紀夫の『仮面の告白』も同じだ。

 従って彼には「戦後派」という不名誉なレッテルを与えても良い。



[付記]

三島を論じながらどうしても話がそこに行かなかったので付記。

 このプロレタリア文学のなれのはてのような批判は実は1980年代までは露骨にあつて、たとえば村上春樹作品が四畳半の木造アパートに住みながらプチブル的生活に憧れている女性読者に支えられているとかいうわけの解らない批判にさらされたことがある。(手元に資料がないが多分スガ秀美の批判だったと思う。)

 現代なら何だそれと云う話だが、要するに何でもかんでも階級闘争に結び付けて批判されるという時代が確かにあった。そういう立場の人からすれば石原慎太郎なんかはとんでもないという話になるわけだが、そういう意味ではこの時点で三島が、日本文学はプロレタリア文学と風俗小説に分かれたけれども僕は純粋小説をやるよと横光利一みたいなことを言い出しているのが面白い。

 そして書いたものが太宰の『人間失格』と比較されることも面白い。なんなら『仮面の告白』には「ジェンダーの視点」がありそうで、実はないということも面白い。女装趣味というものは出てくるのだが、男装と云うものに対してひどく差別的なのだ。

 男装ぎらい、それは男性生殖器を持たざるトランス女性に対する差別につながりかねない。蒲鉾を食べることが竹輪に対する差別につながりかねないように。


[余談]

 時々蕎麦も出すうどん屋があるけれど、そういうのもトランスというのかな?

 昔の吉野家は多様性を認めていなかった。から揚げとかカレーが出てくるのは時代の投影?

 

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