見出し画像

「ふーん」の近代文学⑯ ナメクジかナマコみたい

三島  私は「近代文学」というのは、まったく肌に合わなくて、最後の方では同人になりましたが。
三好  そうですね。第二次同人拡充のころに。
三島  でも、まつたく肌が合わない。なんでやっているのか、まったくわからなかった。いまだにわからないです。

(「三島文学の背景」『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2004年)

 三島由紀夫は作家と云うものは作品の原因ではなく結果だと語る。書いたものを引き受けなければならないから作家なのだ。あるいは三島は芸術と生活の法則を完全に切り分けた。芸術の結果が生活にある必然を命じればそれは運命であり、運命を感じていない人間なんて、ナメクジかナマコみたいに気味が悪いと。

 いわれていますよ。ナメクジかナマコみたいに気味が悪いんですって。「ふーん」のみなさん。オルカン投資で儲かったとか、早くFIREしたいとツイートしているみなさん。それは生活ですよ。ナメクジでもナマコでも生活は出来ます。

三島  日本語を明晰にしたいという要求は、僕の場合は西洋の影響より、鴎外の影響ですね。あんな明晰で、美しい日本語が書きたいと思って。鴎外はやはり、漢文学の教養があったからかけたのだろうと思いますけども。ほかの日本語はたいてい、曖昧で、きらいでした。漱石の日本語も曖昧ですからきらいなんです。

(「三島文学の背景」『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2004年)

 はい。

 反論をどうぞ。

三好  いえ、そうではなくて、初期の非常に絢爛たる文体、アフォリズムですとか、いろいろな装飾をちりばめた文体があったわけで、あれはむしろ謡曲の文体には近くても、鴎外の文体からはちょっと遠いのではないか。
三島   遠いですね。

(「三島文学の背景」『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2004年)

 遠いんかい。

 でしょうよでしょうよ。むしろそんな表面的なところではなく、運命なんて言うくらいだから、思想的には漱石に近付いていたんじゃないの?

三好  そうすると、三島さんの文学で、やはりひとつのモチーフになっているものに、選択と自由意志の問題がありますね。そこに可能性の問題などがからんでくるのですが、━━ 人間は、自由意志によって選択しますね、いろんなことを。それで三島さんの場合は、その選択が、源泉とどこかで出会いうるとお考えなんですか。
三島  ええ、ぼくは、自由意志が最高度に発揮されたとき、選択するものは、決まっていると思う。それが源泉ですね。

(「三島文学の背景」『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2004年)

 そうか、そう考えるのか。しかし「選択と自由意志の問題」というモチーフがあることは認めるんだな。それは『明暗』のメインテーマなんだけれど。

三島  僕は、批評家がしたり気に、幸福な作家だったとか言うが、そんなことは信じませんね。その時代、時代、その時点、時点において、作家はみんな不幸ですよ。

(「破裂のために集中する」『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2004年)

 太宰か。





[付記]

 作家のエレガントさとかチャームの中には、矛盾したところというか理屈を超えてくるところというのがあるように思う。三島の『金閣寺』で言えば、

 この「有為子は留守だった」というところ。これは全然明晰でも何でもないわけです。「何でいると思うとんねん」と常識的にはなる訳です。普通に考えると頭がおかしいわけです。二つの世界の間をふわふわ漂っている感覚です。鴎外には無くて、漱石に少しあり、芥川にはあった感覚ですね。村上春樹はずっとこれをやっていますね。ナメクジかナマコには解らない感覚だと思います。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?