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「ふーん」の近代文学22 そんなことある?

 一つの事件に立ち会つた人々の証言は、喰ひちがつてくるのがならはしであり、大きな社会的事件は、必ず永遠の不可解を秘めてゐる。しかし人間世界で起る事件である以上、事件の核心には必ず人の心がある。その心が外側からもはつきり見えると云ふ仮構が、近代社会では成立たないだけである。

(『小説家の休暇』『決定版 三島由紀夫全集 28巻』新潮社 2004年)

 これは安倍元総理暗殺の話ではない。

 叙事詩といふものを考へると、私にはまるで硝子張の人体のやうに、行為する人間の心が、外側からはつきり見えるといふ仮構が、叙事詩を成立させる唯一の条件だつたと思はれる。

(『小説家の休暇』『決定版 三島由紀夫全集 28巻』新潮社 2004年)

 では三島は行為を諦めただろうか。そんなことはない。明確に他者である芸術家に伝達不可能なものである筈の行為を、行為の本質というものに直面する契機をつかむことが芸術家の任務だというのだ。

 これは芸術が、芸術家が仮構そのものであると言っているのに等しい。しかしこれは出鱈目な話ではない。現実的に芸術家は仮構であろう。

 例えば「刀剣乱舞」が刀の擬人化であるように「文豪ストレイドッグス」は作家の擬人化だ。なかにはsosekinatsumeが実在した作家だと知って驚く人までいる。

 あるいは今でも多くの人が夏目漱石は実在したという「遊び」に参加しているに過ぎないのだ。実際にはどうか?

 たとえば村雨春陽は実在したのだろうか?

 それはまだ誰も知らない。何故ならまだこの本を誰も読んでいないからだ。


[余談]

 三人称で書くことに関する閊えのようなものがある。どう考えても他人は他人であり、自分ではない。では一人称で書くことが誠実かと云えばけしてそうではなかろう。誠実な人は沈黙を貫く。





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