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私にとっての近代文学とは① 『心』のKは苗字ではない。

 もしも近代文学がこの宇宙に於いて何か価値あるものであるとしたら、それはただこの私にしか夏目漱石作品が明らかではないという、いささか真面ではない現実こそが、その希少性に於いて私だけにその価値を保証しているからではなかろうか。
 つまり、誰にでも解り得るものとしての夏目漱石作品が存在するのではなく、何万人が挑んでもたどり着けないところにある夏目漱石作品の読みが、大天才でもない私だけに可能であることこそが近代文学の本当の価値なのではなかろうか。

 無論繰り返し書いてきたように、私は俊成から、小林秀雄迄、手当たり次第に批評してきた。だから問題は近代文学のくくりの中に小さく閉じられることはない。「かひや」が害獣の鹿を追い払うために煙を出していぶす小屋の意味だとしたら、その下でカジカガエルが鳴くなどということはあり得ない。鹿が追い払われるのだから、そんなものにはカジカガエルも近寄らない。それが「蚊火屋」であっても同じだ。小屋が高床式に作られるのはもっと時代が下ってからの事ではなかろうか。

 だから「朝霞鹿火屋が下に鳴くかはづ声だに聞かば我れ恋ひめやも」の「かひや」を鹿火屋と解釈することはおかしいのだ、という程度のことを書いた。無論私が何を書いても文学史が書き換えられることはない。


 それでもすべての漱石論者が読み間違えているという事実を、むしろどうでもいいこととみなし、私だけが本当の夏目漱石作品に向き合うとするならば、私の漱石論は私にとっては福音でありうる。

 現時点で私の言葉は確率的には信じがたいほど、わずかな人々にしか届いていない。また届いていたとしても、程度の問題がある。

 たとえば『こころ』の「私」がKの生まれ変わりのように仄めかされており、先生がそのことに最後まで気が付いていないという当たり前の話を、まだ三百人前後しか認めていない。この数字は『こころ』の読者数からして圧倒的に少ないばかりではない。私の電子書籍、note、読書メーターの閲覧者と照らし合わせてみても明らかに少なすぎるのだ。

若い頃読んだこころだが、適当に読んでいたことが知らされた。
心という目に見えないものを扱うのだから、もう少し慎重に読んでいれば、私のその後の人生ももう少しまともだったかもしれないと。


 それでもこの本を読み、たった一人だがこんなレビューを書いてくれた人がいた。有難い話だが、むしろ不思議なのは私が『こころ』だけに正解を見つけたわけではないということの重要さにはまるで気が付かないことだ。『百年の曲解を祓う 夏目漱石『こゝろ』の正解』を読んで、ああそういうことかと感心しながら、なおも、ただこの私にしか夏目漱石作品が明らかではないという、いささか真面ではない現実には気が付かないのだ。つまり『それから』論や『三四郎』論を読まない。


 現実というのは実に奇妙な世界である。漱石論者全員が『行人』のあらすじを読み違え、『道草』のパズルにも気が付かない、そうした間抜けの中に夏目漱石作品は押し込められているのだ。

 こいつ何か可笑しなことを書いているよ、行っちゃっているんじゃないの、と思われた人には、このタイトルを見て貰おう。

「ヴィシ・ソワーズ」と「グラス・ホッパー」とは何度も様々な出版から繰り返し出版されてきた村上春樹作品に残っていた誤表記である。私はこれまでに、

 …といった校正本を書いてきた。商業出版されるベストセラー作家の作品にあからさまな誤りがあることなど立ち読みでは気が付かなかったが、座り読みをするとそれがゴロゴロ見つかる。最初は少しふざけていたが、そのうちこれはとんでもないことだと気が付いた。

 例えば村上春樹さんはブラックホールを「宇宙に空いた黒い穴」だと思い込んでいる。ブラックホールは穴ではなく天体である。内容証明に離婚届は同封できない。タマルの養子縁組では国籍は変更にならず、七号定住者にしかなれないので自衛隊にも入れない。自衛隊にレンジャー資格はあってもレンジャー部隊はない。そうしたことを書いてきた。

 しかし問題は現代文学だけのものでもないのだ。当時の会社法では一人の株主の株主提案の個数に制限がないことから、私は野村HDに100個の株主提案を行った。

 これまでそんなことに誰一人気が付かず、そこに問題があると考えた人もいなかったのだ。その後がまた凝っている。「権利濫用的な株主提案を防止する目的で」株主提案は一人十個に制限されるよう会社法が改正されたのだ。質の問題が量の問題にすり替えられていることに、これまた誰一人気が付かない。それは野村HD側から公表されていない株主提案に、まともなものがあることに誰も気が付かないという事態と似ている。

 少し話を戻そう。漱石論者全員が『行人』のあらすじを読み違え、『道草』のパズルにも気が付かない、そうした間抜けの中に夏目漱石作品は押し込められているのだとして、やはり書いても書いても殆ど誰にも届かず、もし届いたとしてもその人の読書欲をへし折るようなものが私の漱石論だとしたら、それはやはりあくまで私的言語に留まるのであり、公に書くことには最早意味がないのではなかろうか。

 例えば田川敬太郎の物語として規定される『彼岸過迄』と同型の小説である『行人』と『心』における主人公はそれぞれ二郎と「私」である、と私が書いても今更江藤淳や吉本隆明が訂正本を出すわけにはいかない。江藤淳や吉本隆明の本は私が書くものよりも多くの読者に読まれていく。どこで多数決を採っても一郎や先生が主人公になってしまう仕組みである。「ヴィシ・ソワーズ」と「グラス・ホッパー」という解りやすい例を引き合いに出し、なお『心』のKは苗字ではないので、幸徳秋水とか工藤一だと書いている島田雅彦や高橋源一郎は間違っていると書いたとして、所詮は有名人の本を有難がって買う人にはどうでも良いことで、そんなことはそもそも意味がないことなのだ。

 ただその意味のなさはまた私にとってはどうでもいいことなのだ。世界がそのように成り立っているからこそ、ただこの私にしか夏目漱石作品が明らかではないという、いささか真面ではない現実こそが、その希少性に於いて私だけにその価値を保証しているからである。

 ブラックホールは穴ではなく天体である。『心』のKは苗字ではない。私はそのことを同じ冷静さで書いている。間違えているのはどちらだ?






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