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夏目漱石論2.0

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#国語の教科書

『彼岸過迄』を読む 4375 漱石全集注釈を校正する② 赤い煉瓦は帝大なのか?

『彼岸過迄』を読む 4375 漱石全集注釈を校正する② 赤い煉瓦は帝大なのか?

岩波書店『定本 漱石全集第七巻 彼岸過迄』注解に、

 とある。件の『三四郎』の場面は、こう。

 なるほど確かに赤煉瓦はここにもある。しかし、

 帝大の可能性も考えた。しかしこの「洗い落したような空の裾に」という表現は遠景、視界の果てを指しており、「色づいた樹が」は銀杏並木ではなく上野の森をさしてはいないだろうか。そして「色づいた樹が、所々暖かく塊っている間から赤い煉瓦が見える」とすれば、それ

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『彼岸過迄』を読む 4376 漱石全集注釈を校正する③ 三田線神田行は小石川に向かう

『彼岸過迄』を読む 4376 漱石全集注釈を校正する③ 三田線神田行は小石川に向かう

 岩波書店『定本 漱石全集第七巻 彼岸過迄』注解に、

 ……とある。三田線には「本郷三丁目行き」と「神田小石川行」があった。また「神田」とは「神田方面という意味合いの通称」ではなく、また「神田バシ」を指すのでもなくまさに「神田小川町(かんだおがわまち)」を指すものと考えられる。

 三田線の各停留所は、「本郷三丁目行き」の場合以下の通り、

三田 ↔ 芝園橋 ↔ 櫻田本郷町 ↔ 日比谷 ↔ 神田

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本を読むということ④ 絵にする? しない?

本を読むということ④ 絵にする? しない?

 酒鬼薔薇君の『絶歌』の中で「(酔っぱらっていてよく覚えとらんけど)竜ケ台の事件は八割がた俺がやった」とダフネ君を殴る場面があって、何故殴ったのかと言えばそういう場面が必要だというのがその答えで、酒鬼薔薇君は映画を撮るように本を読んでいたという話があるが、私はいままでそのことを彼のレトリックと切り離して考えていた。

 私は「植物の名前が三つ入った立体的な風景描写」が自然にできることが
何か自分の

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『三四郎』を読む⑨  なかなか柔道を始めないな…

『三四郎』を読む⑨  なかなか柔道を始めないな…

 読書メーターで『三四郎』の感想を読んでいたら、なかなか柔道を始めないな……というものがあって大いに笑ったが、実はこれは笑い話ではないかもしれない。

『姿三四郎』(1942年)は富田常雄の人気小説で、西郷四郎がモデルと言われる。四郎の得意技は「山嵐」、『坊っちゃん』に出てくる毬栗坊主のあだ名と同じだ。『坊っちゃん』の山嵐と西郷四郎はともに会津出身、『坊っちゃん』に出てくる校長のモデルの一部はど

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本を読むということ⑧ 本当は作者と読者しかいないのに

本を読むということ⑧ 本当は作者と読者しかいないのに

 このnoteに参加していてひしひしと感じるのだが、たまに新着記事に「スキ」してくる人ほど文学を徹底的に軽んじている人はあるまい。文学を「月の世界でなければ役に立たない夢のようなものとして、ほとんど一顧に価しないくらいに見限ってい」なければ、そのようなふるまいが可能だとは到底考えられない。彼らは自分の商売に誰かを巻き込みたくて必死なだけなのだが、それならばもっと別の良い方法があることに何故か気が付

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三四郎を読む⑦ 小宮と三重吉の弥次喜多珍道中?

三四郎を読む⑦ 小宮と三重吉の弥次喜多珍道中?

 ついこの間淀見軒のライスカレーについて調べていて、ふと与次郎が淀見軒をヌーボ式と言っているが、これが見事にアール・デコだということに気が付いた。実物の写真を見れば誰でも気が付くはずの事なのに、淀見軒の写真を見ていなかったので、つい見落としていたのだ。

 これが漱石のふりだとすれば、「てんどん」式に同じやり方が繰り返されているのではないかと疑っても良いだろう。すると俄然ここが怪しくなる。なんとい

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『三四郎』を読む⑥ やり過ごされる漱石

『三四郎』を読む⑥ やり過ごされる漱石

 夏目漱石という「余裕派」の『三四郎』の冒頭付近では、こんな日露戦争批判が語られる。

 これは今でこそ正論だ。賠償金を得られなかった日本はそこから貧しい国になる。よく調べてみるとこのころから大量の食い詰め者がでて世界中に移民し、また移民を制限され、移民を拒否されている。

 結局ロシア、ソビエトとの関係、日露戦争の負の遺産は現在に至るまで解消していない。しかし例えばこんなものを大東亜戦争当時に新

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『三四郎』を読む③ 難航する三四郎 読み誤る漱石論者たち

『三四郎』を読む③ 難航する三四郎 読み誤る漱石論者たち

レオナルド・ダ・ヴィンチに辟易する三四郎

 何故三四郎はレオナルド・ダ・ヴィンチという名を聞いて少しく辟易したのだろうか。また何故ゆうべの女のことを考え出して、妙に不愉快になったのだろうか。

 この点は明確には書かれていないので深読みに注意しなくてはならない。

 ダ・ヴィンチはまず奇警を発するもの、奇抜で並外れた言動をするものとして現れる。ここでは奇警は必ずしも名案ではないと流されている様子

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『三四郎』を読む② 文豪飯などどうでもよいが 淀見軒のカレーにじゃが芋は入っていたか?

『三四郎』を読む② 文豪飯などどうでもよいが 淀見軒のカレーにじゃが芋は入っていたか?

 このポンチ絵をかいた男というのは佐々木与次郎である。三四郎は与次郎にライスカレーをおごられる。二人は案外安っぽいもので結びつく。私はカレーライスが大好物だが、夏目漱石がカレーライスを食べた記録はない。ここは三四郎と与次郎の一段低い西洋化があつたとみるべきだろうか。

 予定だったところに出くわす趣味品性の備わった学生?である。小宮豊隆は三四郎が自分、鈴木三重吉が与次郎のモデルではないかと考え、ひ

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『ふわふわする漱石 その哲学的基礎とウィリアム・ジェームズ』について

『ふわふわする漱石 その哲学的基礎とウィリアム・ジェームズ』について

 あらためて読み返すと確かに漱石にはふわふわしたものがある。これは私の発見ではなく『ふわふわする漱石 その哲学的基礎とウィリアム・ジェームズ』(岩下弘史/東京大学出版会/2021年)の主張である。これは1986年生まれのまだ若い研究者による節度を持った本格的な漱石論である。ふわふわする漱石が「ばらばら」な世界を「融け合う」あるいは「融け合わない」ものとして描いていく様をウィリアム・ジェームズの『多

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丸谷才一の『坊っちゃん』論について① ご覧の通りの始末である   

丸谷才一の『坊っちゃん』論について① ご覧の通りの始末である   

 こう語る丸谷才一は延岡が山奥とされることに気づいてさえいなかったという理屈になる。命より大事な栗の木にも、そして何よりも親譲りの無鉄砲で損ばかりしているという書き出しの不思議さに気づいてさえいなかったのだ。気が付かないばかりか、読み間違えもある。

 これを書いている時点で丸谷才一はもしかすると『坊ちゃん』全体を最後に読んでから、少し時間がたっていたのかも知れない。冷静に読めば「おれ」は一応女嫌

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丸谷才一の『三四郎』論について① 読み返しながら書くべき

丸谷才一の『三四郎』論について① 読み返しながら書くべき

 こう名古屋で三四郎の風呂場に入ってくる女について丸谷才一は書いているが、作中では、

 とある。つまり元は海軍の職工だったが、満州の玄関口の大連に出稼ぎに行った夫の安否は不明なので、元妻かもしれないということだ。細かいようだが重要なことだ。大連を満州に置き換えるのはやや乱暴ながら、ぎりぎり完全な間違いとは言えない。しかし職工の妻と読み違えたからには、夫の安否が不明であり、仕送りもないところの女の

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私にとっての近代文学とは① 『心』のKは苗字ではない。

私にとっての近代文学とは① 『心』のKは苗字ではない。

 もしも近代文学がこの宇宙に於いて何か価値あるものであるとしたら、それはただこの私にしか夏目漱石作品が明らかではないという、いささか真面ではない現実こそが、その希少性に於いて私だけにその価値を保証しているからではなかろうか。
 つまり、誰にでも解り得るものとしての夏目漱石作品が存在するのではなく、何万人が挑んでもたどり着けないところにある夏目漱石作品の読みが、大天才でもない私だけに可能であることこ

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江藤淳の漱石論について⑳ 登世という嫂と夏目漱石はセックスをしたのか? というどうでもいい問い

江藤淳の漱石論について⑳ 登世という嫂と夏目漱石はセックスをしたのか? というどうでもいい問い

 江藤淳のライフワークともいえる『漱石とその時代』は平たく言えば確かに小説家夏目漱石の実像に迫ろうという試みであり、作品を読み解きながらその関心はあくまで漱石にあった。いや、もう少し正確に言えば、漱石自身よりも漱石が存在した時代に焦点が当てられていたと言ってよいだろう。私はその真逆で、時代も漱石も漱石作品を理解するための資料に過ぎないと考えていて、これまでその方向性で夏目漱石作品を論じてきた。江藤

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