見出し画像

丸谷才一の『坊っちゃん』論について① ご覧の通りの始末である   

 とにかく、本当に、息をつぐ間もないくらゐ快調に話が進んで、二百三十枚か四十枚が見事に完結する。ここはちよつとをかしいな、と思ふところが一つもない。恐ろしいほどの名作です。(「忘れられない小説のために」『闊歩する漱石』所収/丸谷才一/講談社/2000年)

 こう語る丸谷才一は延岡が山奥とされることに気づいてさえいなかったという理屈になる。命より大事な栗の木にも、そして何よりも親譲りの無鉄砲で損ばかりしているという書き出しの不思議さに気づいてさえいなかったのだ。気が付かないばかりか、読み間違えもある。

 ところが『坊っちゃん』では、あの中学教師である主人公は女嫌ひもいいところで、女に対する関心はこの小説では否定的に評価されてゐる。(「忘れられない小説のために」『闊歩する漱石』所収/丸谷才一/講談社/2000年)

 これを書いている時点で丸谷才一はもしかすると『坊ちゃん』全体を最後に読んでから、少し時間がたっていたのかも知れない。冷静に読めば「おれ」は一応女嫌いではないと考えられる。

お婆さんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにお出いでなんだのぞなもしなどと質問をする。奥さんがあるように見えますかね。可哀想にこれでもまだ二十四ですぜと云ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと冒頭を置いて、どこの誰さんは二十でお嫁をお貰いたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人お持ちたのと、何でも例を半ダースばかり挙げて反駁を試みたには恐れ入った。それじゃ僕も二十四でお嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を真似て頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。
「本当の本当のって僕あ、嫁が貰いたくって仕方がないんだ」
「そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ」この挨拶には痛み入って返事が出来なかった。(夏目漱石『坊っちゃん』)

 社交辞令としても「おれ」はこう述べている。作中本当に女気がないのは確かに事実で、むしろ「女嫌ひ」の疑いを持ってしまうのは当然ながら、やはり「おれ」は「女嫌ひ」ではなかろう。仮にお婆さんとの会話が社交辞令であったとしても、マドンナとの出会いでは実にポエジーな心境を吐露しているのだ。

 ところへ入口で若々しい女の笑声が聞きこえたから、何心なく振り返ってみるとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが並ならんで切符きっぷを売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶の珠を香水で暖っためて、掌へ握ってみたような心持ちがした。年寄の方が背は低い。しかし顔はよく似ているから親子だろう。おれは、や、来たなと思う途端に、うらなり君の事は全然すっかり忘れて、若い女の方ばかり見ていた。(夏目漱石『坊っちゃん』)

 この出会いから映画などでは「おれ」とマドンナの恋が脚色されるなどしてきたわけだが、丸谷才一はその脚色が嘘だということを言いたかったのであろう。しかし「何だか水晶の珠を香水で暖っためて、掌へ握ってみたような心持ちがした。」とはその書き方も含めて尋常ではない。一目惚れを疑われても可笑しくない。仮に若い男性が女性に「きみを一目見たとき、何だか水晶の珠を香水で暖っためて、掌へ握ってみたような心持ちがしたんだ」と面と向かって云ったらどうだろう。それは限りなく告白に近いものに見えないだろうか。

 ところが、生卵を投げて弾丸の代わりにするといふのはその上をゆくもので、たぶん世界文学最初の思ひつきではないでせうか。(「忘れられない小説のために」『闊歩する漱石』所収/丸谷才一/講談社/2000年)

 これもよくある誤解だ。ヨーロッパでは、「謝肉祭(カーニバル)」のときに卵を投げるという風習があり、民話「猿蟹合戦」の別バージョンには卵が登場する。「1887年の教科書に掲載された『さるかに合戦』では、クリではなく卵が登場し、爆発することでサルを攻撃するほか、牛糞の代わりに昆布が仲間に加わってサルを滑り転ばせる役割を果たしている。」(ウイキペディアより)

※芥川龍之介の『猿蟹合戦』でも栗ではなく卵になっている。

 この卵投げは漱石の発明というよりはどこかで見聞きした故事にちなんだものではないかと考えているが、証拠は見つからない。ただ少なくとも「世界文学最初の思ひつき」ではないだろう。

 またこれはそもそも丸谷才一だけの問題ではないが、街鉄の技士になることの意味が解かっていない気配がある。

 おれを見る度にこいつはどうせ碌ろくなものにはならないと、おやじが云った。乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が云った。なるほど碌なものにはならない。ご覧の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。ただ懲役に行かないで生きているばかりである。

 しかし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに成れるんだろうと思っていた。今から考えると馬鹿馬鹿しい。

 どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り掛かかったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ。

 卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。もっとも教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。これも親譲りの無鉄砲が祟ったのである。
 引き受けた以上は赴任せねばならぬ。この三年間は四畳半に蟄居して小言はただの一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに済んだ。おれの生涯のうちでは比較的呑気な時節であった。(夏目漱石『坊っちゃん』)

 丸谷才一は『坊っちゃん』を擬似英雄詩と見做す。これは慧眼だ。悪い田舎者を懲らしめる擬似英雄の滑稽譚という見立ては見事に当てはまる。「おれ」が仮想敵を無茶してやっつける理由が見えてくる。飛車を眉間へ擲きつけるのも、生卵を投げつけるのも、変な武器を工夫する擬似英雄詩の流れを汲むものであろう。

 しかし『坊っちゃん』は額縁小説でもある。ご覧の通りの始末である。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ。と「おれ」は後悔している。それは街鉄の技士の生活で小言を聞かされ、喧嘩もしているからなのだろう。おれの生涯のうちでであり、それまでのおれの生涯のうちでではないのだということ、その程度のことを丁寧に読んでいかないと夏目漱石作品を論じることは難しい。月給が四十円から二十五円に下がる。だからご覧の通りの始末である。なのだ。今は呑気な時節ではないのだ。これはストーリーに関する基本的な確認事項であり、任意に解釈してよい部分ではない。しかしこのあたりを正確に捉えている人がどのくらい存在しているのだろうか。

 知ってたよ、という人手を挙げて!

 はい、降ろして。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?