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『三四郎』を読む② 文豪飯などどうでもよいが 淀見軒のカレーにじゃが芋は入っていたか?

 昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、きのうポンチ絵をかいた男が来て、おいおいと言いながら、本郷の通りの淀見軒という所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。淀見軒という所は店で果物を売っている。新しい普請であった。ポンチ絵をかいた男はこの建築の表を指さして、これがヌーボー式だと教えた。三四郎は建築にもヌーボー式があるものとはじめて悟った。(夏目漱石『三四郎』)

 このポンチ絵をかいた男というのは佐々木与次郎である。三四郎は与次郎にライスカレーをおごられる。二人は案外安っぽいもので結びつく。私はカレーライスが大好物だが、夏目漱石がカレーライスを食べた記録はない。ここは三四郎と与次郎の一段低い西洋化があつたとみるべきだろうか。

 これから東京に行く。大学にはいる。有名な学者に接触する。趣味品性の備わった学生と交際する。図書館で研究をする。著作をやる。世間で喝采かっさいする。母がうれしがる。(夏目漱石『三四郎』)

 予定だったところに出くわす趣味品性の備わった学生?である。小宮豊隆は三四郎が自分、鈴木三重吉が与次郎のモデルではないかと考え、ひやひやしていたらしい。

 この三四郎と与次郎が食べた淀見軒のライスカレーにじゃが芋が入っていたかどうか、そんなどうでもいいことが知りたい人はいるだろうか。実はこの点に関してはどうもはっきりしない。

 河内一郎は『漱石のユートピア』(現代書館、2011年)において、

 明治二十年代になると小麦粉でとろみをつけ、肉、ジャガイモ、玉葱、人参を加え、ルーの多い日本独特のとろみソースのカレーができる。

 ……としてじゃが芋入りカレーを匂わせる。一方、藤森清は『漱石のレシピ 「三四郎」の駅弁』(講談社、2003年)において、じゃが芋の入らない明治三十九年のカレーレシピを紹介、淀見軒のライスカレーが十銭で学生に大人気であったことを突き止めている。そして、男爵イモが日本に入ってくるのが明治四十一年以降であり、じゃが芋がカレーに入るのは『三四郎』より後のことだと推測している。
 しかし、

 小菅桂子著「カレーライスの誕生」(講談社)によると、1896年(明治29年)、カレーの材料として「芋」が登場する。1903年(明治36年)には雑誌に作り方が出ており、「わさびおろしですりおろす」とある。レシピには小麦粉はなく、ジャガイモでとろみを付けていたようだ。

 ……と、既にカレーにはじゃが芋が入れられており、とろみもついていたのではないかと考えられる。

 と、本当にどうでもいいことを考えながら淀見軒の画像検索をしていたら妙なことに気が付いた。「ポンチ絵をかいた男はこの建築の表を指さして、これがヌーボー式だと教えた。」とあるが、その建物は幾何学模様に原色の対比デザインであり、どこからどう見てもアール・デコなのだ。アール・ヌーボーではけしてない。それを漱石が知らぬわけもないので、ここで小宮と三重吉は……いや、三四郎と与次郎はアール・ヌーボーとアール・デコの区別もつかない趣味品性の備わった学生?として描かれていることになるのだ。つまりここは笑うところなのだ。

http://gengoroo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/3-11cc.html

 調べてみると、淀見軒の建物がアール・デコであることに気が付いている人を一人見つけた。おしい。後ちょっとなのに。そしてあい変らずつまりここは笑うところなのだと解っていた人も一人として見つからない。

 そんなことでいいのかな。

 今回は、夏目漱石作品を読むためには、なんとなくさらっと通り過ぎてしまうところでちょっと立ち止まる必要があるという、そんな文学以前のお話でした。本、買ってね。

 お願いしますよ。

 ほかに収入がないんですから。あと★五のレビューもね。


【付記】淀見軒のもう一つの意味

 淀見軒のライスカレーは十銭、ビフテキが十二銭なので現在の感覚ならむしろライスカレーが高すぎるように感じるが、この現在の感覚も当時の感覚とは差があるのだろう。

 ところで淀見軒が選ばれた理由にはもう一つの意味があるようにも思える。

 私は、例えば平岡と代助の間にホモセクシャルを見出すような解釈には同意できない。『それから』は注意深く書かれている。仮にホモセクシャルの可能性を見るなら菅沼との関係を精査しなくてはならないと考えている。

 そう前提して改めて書くのだが、淀見軒は女給を置かないことで硬派な学生から人気だったそうである。小宮がひやひやするのも理由のないことではない。





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