見出し画像

三四郎を読む⑦ 小宮と三重吉の弥次喜多珍道中?

「そう不勉強ではいかん。カントの超絶唯心論がバークレーの超絶実在論にどうだとか言ったな」
「どうだとか言った」
「聞いていなかったのか」
「いいや」
「まるで strayストレイ sheepシープ だ。しかたがない」(夏目漱石『三四郎』)

 ついこの間淀見軒のライスカレーについて調べていて、ふと与次郎が淀見軒をヌーボ式と言っているが、これが見事にアール・デコだということに気が付いた。実物の写真を見れば誰でも気が付くはずの事なのに、淀見軒の写真を見ていなかったので、つい見落としていたのだ。


 これが漱石のふりだとすれば、「てんどん」式に同じやり方が繰り返されているのではないかと疑っても良いだろう。すると俄然ここが怪しくなる。なんというかこうした漱石の言葉を一つ一つ真剣に受けとめすぎて、ここから何か深遠な意味を取り出そうと努力している人が少なくないので申し訳ないのだが、やはりものすごく素朴に考えれば、ここはイマヌエル・カントとジョージ・バークリーがあべこべになっているのではなかろうか。いや深読みすればいくらでも深読みはできるのだけど、そこにはあまり意味はないように思えるのだ。

 そう不勉強ではいかん、と怒られそうだな。

 アール・デコとアール・ヌーボの違いはアール・ヌーボのツボ一つでも見ていれば明かに判る。しかし哲学の何々論と何々論の違いはそう明瞭なものではない。淀見軒をアール・ヌーボと見做した与次郎を笑うのは簡単だが、「カントの超絶唯心論がバークレーの超絶実在論」と言われれば何か意味があるのかと考えてしまうのも解る。これが馬場の卍固めと猪木の十六文キックなら誰にでも……これが藤波のサソリ固めと長州のドラゴンスリーパーなら……これが蝶野のシャイニングウイザードと武藤のSTFなら……これがオカダ・カズチカのディスティーノと内藤哲也のレインメーカーなら……誰にでも解るだろうが、ニコラウス・クザーヌスの離脱とマイスター・エックハルトの合一なんて言われても、丸鶴のラーメン半チャーハンとまるよしのレタスチャーハンと言われたようなもので、そんなものは近所の人にしかわからない。

 カントの解釈はさまざまにできる。カントの哲学を「超越論的観念論」と規定したとき、それにはさまざなますり替え表現が可能なのではないかと思う。しかし「バークレーの超絶実在論」という表現には少し無理があるように思えるのだ。バークリーは「素朴実在論」を批判する形で主観的観念論を唱えたとされるが、それを肯定的に表現すればまさに「超絶唯心論」となり、「超絶実在論」とはならない。カントは独断的唯心論、唯物論をともに批判している。バークリーは唯心論的観念論の立場を取っているように思われる。こうした哲学上の議論は一文字ずらすことで糞みそのレベルに落ちてしまうことから漱石の云う「超絶」の概念が曖昧なところで、あまり真剣に論じても意味がないように思えるが、ごく素直に私にはイマヌエル・カントとジョージ・バークリーがあべこべになっているように思える。

 これがアール・デコをアール・ヌーボと取り違えたことの「てんどん」と見做したとき、これが落ちになっていないだろうかというのがこの話の本筋である。

 与次郎はその時はじめて、美禰子に関する不思議を説明した。与次郎の言うところによると、よし子にも結婚の話がある。それから美禰子にもある。それだけならばいいが、よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。だから不思議なのだそうだ。
 三四郎も少しばかにされたような気がした。しかしよし子の結婚だけはたしかである。現に自分がその話をそばで聞いていた。ことによるとその話を美禰子のと取り違えたのかもしれない。けれども美禰子の結婚も、まったく嘘ではないらしい。三四郎ははっきりしたところが知りたくなった。ついでだから、与次郎に教えてくれと頼んだ。与次郎はわけなく承知した。よし子を見舞いに来るようにしてやるから、じかに聞いてみろという。うまい事を考えた。
「だから、薬を飲んで、待っていなくってはいけない」
「病気が直っても、寝て待っている」(夏目漱石『三四郎』)

 与次郎が誤情報を伝える。シェイクスピア芝居の立ち聞きから生じる誤解のような作法かと思うがそうドラマは生まない。

 『三四郎』には「ハイドリオタフヒア」だの「ダーターファブラ」だの「Amaranthアマランス」だのと何やら正体不明な仄めかしが多い。その全てがぴたりと見事な絵を結ぶことはあり得ないのではないかと私は考えている。すべてをコントロールすることは諦め、副意識なのか第二意識なのか、そういうものに物語をゆだねている気配がないとも言えない。

 だがおそらく明確に意識した工夫はある。おそらく漱石は近代文学としての『三四郎』に弥次喜多珍道中的な滑稽を意図して挟み込んだ。そこには真剣に議論されるべき深い哲学はなかろう。しかしそもそも小説とは挟み込まれた哲学を取り出して、作品と切り離して議論するべきものでもなかろう。ボケと突っ込み、ふりと落ちを楽しむべきものであろう。まるよしは大抵ごはんが売り切れて半チャーハンが作れなくなるので要注意である。

 凡そ文学的材料中、最も力弱きは知的、超自然的の二者なれば、これ等を使用する際には勢ひ更に有力なる感覚的、及び人事的の内容を配し全体の興味を大ならしむべきは云ふを待たず。(夏目漱石『文学論』)

 まるよしの材料中最も力弱きは「ごはん」である。

【付記】本当のnote

 H.パットナムの『科学的認識の構造』(藤川吉美訳、晃洋書房、1984年)の冒頭では、カント以後、真理は実在論者(realist)によって、「事実とのある種の対応」として解釈され、検証論者(verificationist)によって「研究によって検証されるもの」として考えられてきた…と分類される、と本当のnoteに書いてあった。検証論者には矢印が引かれ、パースと書いてある。これがp.1

 p.2では、経験論者は「真理」を形而上学的なものとして排除したとある。ここにも矢印が引かれ、ジョン・デューイ ━ 「保証付主張可能性(warranted asseribility)」と書いてある。

p.4ではカウツキーのメタ言語について書いてある。
・確率的に検証可能
・確実に検証可能
 …という区別があるとして
「雪は白い」が真であるのは、雪が白いときそのときに限る、と書いている。何のことかわからないぞ。

p.7に飛んで

「カントは真理対応説の見解を経験的領域に含め、そして真理の心依存(maind-dependence)を強調する」と引用している。

p.10 からは 引用符消去 disquotation とだけメモしている。

p.12では 「真」は哲学的に中立な概念
     ~を指示する   refers to
     ~について真である is true of

          …とある。論理式の説明なのか?

p.19 にはフィールド、言語の最低基準
「指示とは語、あるいはその語が発せられる特殊な出来事として出現するあるものと、もう一つのものとの間の関係なのだろうか」と書いてある。疑問文だが、脇にyesとも書いてある。ハートリー・H・フィールドのことだろうか。

p.21には、リーズは指示が因果的説明概念であるということを否定しようとする、とある。ラッシュ・リーズのことだろうか。

p.22~23にかけて、こんな引用がある。
「明らかに、我々は語と事物との間の単一の指示関係が存在するということを仮定せずして我々自身の言語への他者の言語の写像(mapping)を正当化することができる。」

そしてp.25 では、

 実証主義(positivism)と

 操作主義(operationalism)が対置され、

観念論↔実在論 のversusが「科学の成功を奇跡的なものにする」とある。

そして◎バークリーの神の使用 とある。

そして、先行理論の諸法則が後続理論の諸法則から「その範囲内で」導出されうるという事実にはいかなる方法論的意味も認められないことになる。

これはp.28からの引用である。

p.31にはクーンの言い分としてこうある。

「異なったパラダイムを生成する諸理論は異なった世界に対応している」

p.33 ではついに 
 諸理論の比較不能性 incommensurability of theories にたどり着き、

ファイヤーアーベントの主張として

「そのような用語は相違せる諸理論においては共通の指示対象も、共通の意味も持つことはできない」とメモしている。

p.35にはこうある

メタ帰結(meta-induction)

「50年以上も前に科学的使用されていたいかなる用語も指示をなさなかったように、現在使用されているいかなる用語も指示をなさないということが判明されるであろう」

 …なるほど。ちんぷんかんぷんだ。

◎バークリーの神の使用が何なのか、今の私には解らない。なんにせよもう五十年以上前の話だ。解ったら解ったで、そのことこそが問題だ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?