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『三四郎』を読む③ 難航する三四郎 読み誤る漱石論者たち

レオナルド・ダ・ヴィンチに辟易する三四郎

「じっさいあぶない。レオナルド・ダ・ヴィンチという人は桃の幹に砒石を注射してね、その実へも毒が回るものだろうか、どうだろうかという試験をしたことがある。ところがその桃を食って死んだ人がある。あぶない。気をつけないとあぶない」と言いながら、さんざん食い散らした水蜜桃の核子やら皮やらを、ひとまとめに新聞にくるんで、窓の外へなげ出した。
 今度は三四郎も笑う気が起こらなかった。レオナルド・ダ・ヴィンチという名を聞いて少しく辟易したうえに、なんだかゆうべの女のことを考え出して、妙に不愉快になったから、謹んで黙ってしまった。(夏目漱石『三四郎』)

 何故三四郎はレオナルド・ダ・ヴィンチという名を聞いて少しく辟易したのだろうか。また何故ゆうべの女のことを考え出して、妙に不愉快になったのだろうか。

 この点は明確には書かれていないので深読みに注意しなくてはならない。

 美学者はそれだから画をかいても駄目だという目付で「しかし冗談は冗談だが画というものは実際むずかしいものだよ、レオナルド・ダ・ヴィンチは門下生に寺院の壁のしみを写せと教えた事があるそうだ。なるほど雪隠などに這入って雨の漏る壁を余念なく眺めていると、なかなかうまい模様画が自然に出来ているぜ。君注意して写生して見給えきっと面白いものが出来るから」「また欺すのだろう」「いえこれだけはたしかだよ。実際奇警な語じゃないか、ダ・ヴィンチでもいいそうな事だあね」「なるほど奇警には相違ないな」と主人は半分降参をした。しかし彼はまだ雪隠で写生はせぬようだ。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 ダ・ヴィンチはまず奇警を発するもの、奇抜で並外れた言動をするものとして現れる。ここでは奇警は必ずしも名案ではないと流されている様子がある。

 ただ、物は見様でどうでもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。一人の男、一人の女も見様次第でいかようとも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。(夏目漱石『草枕』)

 ここではダ・ヴィンチの奇警は受け入れられる。ただしあくまで「非人情をしに出掛けた旅」という非日常における受容である。

「モナリサの唇には女性の謎がある。原始以降この謎を描き得たものはダ ヴィンチだけである。この謎を解き得たものは一人もない。」
 翌日井深は役所へ行って、モナリサとは何だと云って、皆に聞いた。しかし誰も分らなかった。じゃダ ヴィンチとは何だと尋ねたが、やっぱり誰も分らなかった。井深は細君の勧めに任せてこの縁喜の悪い画を、五銭で屑屋に売り払った。(夏目漱石『永日小品』)

 ここではダ ヴィンチは縁起の悪い絵を描いたものとして現れる。井深は「モナリサ」を古道具屋で八十銭で買い、五銭で屑屋に売っているので七十五銭損をした勘定になる。淀見軒のライスカレーが七杯食べられる。ビフテキでも六皿食べられる。偉い損である。

 こうして夏目漱石作品の中のダ・ヴィンチを並べててみた時、やはり『三四郎』におけるダ・ヴィンチはモナリザの「女性の謎」と結びつき、「なんだかゆうべの女のことを考え出して」と続けられたのではなかろうかと思えてくる。

 元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。――(夏目漱石『三四郎』)

 この「女の分からなさ」がダ・ヴィンチによって喚起され、妙に不愉快になったと現時点で私は解釈しておく。

卑怯でなくなる三四郎

「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「滅びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」
 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。(夏目漱石『三四郎』)

 ここは頻繁に引用され「解説」されてしまう箇所だが、多くの漱石論者たちの「解説」はネジが一本抜けてしまっている。ここでは「熊本にいた時の自分は非常に卑怯であった」とはどういうロジックなのかを見ていかねばならないだろう。

 丁寧に読み返してみれば、三四郎は周囲の空気を読み、国賊取り扱いにされるのが怖くて「滅びるね」とは言えなかったということになる。つまり心のどこかに反体制的なもの、明治政府に対する不満や怒りを抱えながら、そうした言動を慎み、逃げていたから卑怯なのだろう。無論「日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」という広田の意見に賛同するなら、三四郎も亦ある意味では保守であり、無政府主義ではない。ただ(本心はどうあれ)日露戦争の勝利に大はしゃぎする国民とはどこか別の意識を持っていると言ってよいだろう。

 これは次にこのように念押しされる。

 この劇烈な活動そのものがとりもなおさず現実世界だとすると、自分が今日までの生活は現実世界に毫も接触していないことになる。洞が峠で昼寝をしたと同然である。それではきょうかぎり昼寝をやめて、活動の割り前が払えるかというと、それは困難である。自分は今活動の中心に立っている。けれども自分はただ自分の左右前後に起こる活動を見なければならない地位に置きかえられたというまでで、学生としての生活は以前と変るわけはない。世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わることはできない。自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。
 三四郎は東京のまん中に立って電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黒い着物を着た人との活動を見て、こう感じた。けれども学生生活の裏面に横たわる思想界の活動には毫も気がつかなかった。――明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を四十年で繰り返している。(夏目漱石『三四郎』)

 この部分もしばしば引用されて「解説」されてきた。ここは「洞が峠で昼寝をしたと同然である」を「日和見的態度をとってきた」と読み、日和見的態度をとってきたことには気が付いたものの、現実の世界の活動に加わる手立てが持てず、思想界の活動には気が付かない、という実質的な日和見的態度を継続していると私は読む。どうも「卑怯」と「日和見的態度をとってきた」という反省はある。しかし政治的なところまでまだ考えが及ばない。それがやがて「三四郎はただ入鹿じみた心持ちを持っているだけである」というぎろりとした表現に行きつくことになると現時点で私は解釈している。

名古屋の女を思い続ける三四郎

 熊本の高等学校にいる時分もこれより静かな竜田山に上ったり、月見草ばかりはえている運動場に寝たりして、まったく世の中を忘れた気になったことは幾度となくある、けれどもこの孤独の感じは今はじめて起こった。
 活動の激しい東京を見たためだろうか。あるいは――三四郎はこの時赤くなった。汽車で乗り合わした女の事を思い出したからである。――現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界はあぶなくて近寄れない気がする。三四郎は早く下宿に帰って母に手紙を書いてやろうと思った。

 おそらくまた誰にも届いてはいまいが、私はこれまで『三四郎』が徹底して色を隠す作品であり、その遊びは『野分』にも見られたものの、作品の主題にはなり得なかったものが、『三四郎』においては「色の出し方がなかなか洒落ていますね。むしろ意気な絵だ」と落とすための「ふり」となっていることを繰り返し語ってきた。三輪田のお光さんの「お光」という名が『こころ』においては「私」の母親の名となって現れるとも書いてきた。繰り返し、『それから』の「生きたがる男」代助が批評家となり、眼球から色彩を出すことで『三四郎』は二重に落ちているとも書いてきた。六回ほど『三四郎』がこれまでの漱石作品からさらにギヤチェンジして途轍もない進化を遂げたのは、色ばかりではなく、何かを隠す、という作法を駆使したからではないかと書いてきた。ん、これは「オミクロン」のあいうえお作文ではないか。

 どうも三四郎はこの時点でまだ名古屋の女を思い続けている。現実世界としての名古屋の女を必要として、今初めて孤独の感じを味わっている。それでもあぶなくて近寄れない気がするので、母親に手紙を書きこれまでの世界とつながろうとしている。漱石はここで立田山と書くべきところを竜田山と書いている。竜田山とは神武天皇が即位前に入り行軍が難航したという山である。三四郎も難航している。



【付記】書き誤る漱石論者たち

 全くどうでもいい話だが、やはり気になるので書いてしまう。どうも漱石論者たちの多くは、曖昧な記憶を頼りに、勝手に話を拵える癖がある。

「日本は│亡《ほろ》びるね」
 女との出会いがいくらか三四郎のこれからの運命を占っているというなら、つぎに出会う広田(後に再会してしかも大きな影響を受ける人間である)にかんしても示唆的である。(中略)広田と三四郎のあいだに「日露戦争」論争が行われる。日本は「│亡《ほろ》びるね」という広田の言葉を聞いて三四郎は「熊本でこんなことを口に出せば、すぐ│擲《なぐ》られる」と思っている。(『漱石のユーモア』張建明、講談社、2001年)

 出版当時は立命館大学の講師だそうである。ということは教育者という立場だったということなので遠慮なく指摘させてもらえれば、まず広田の発言は「滅びるね」であり、「│亡《ほろ》びるね」ではない。また三四郎は「熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる」と思っており「熊本でこんなことを口に出せば、すぐ│擲《なぐ》られる」ではない。「なぐられる」は通常「殴られる」「撲られる」と変換されるので「│擲《なぐ》られる」とワープロで書くにはまず「│打擲《ちょうちゃく》」とでも入力してみなくてはならない。

 また「広田と三四郎のあいだに「日露戦争」論争が行われる。」といった事実はない。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね」と広田は言うが、三四郎は日露戦争には言及していない。二人の会話を敢えて論争というのなら「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と三四郎が言ったのに対して広田が
「滅びるね」と異を唱えたので、テーマは過去ではなく「これからの日本」といったところか。

 張建明は他でも「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」を「余っ程度胸のない方」と書き、「名古屋どまり」を「名古屋│留《どま》り」と書くいている。「名古屋│留《どま》り」では意味が変わってくる。「日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった」を「日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いも寄らなかった」と書き、「三四郎は何度も「妙な人」といわれている」と書く。『三四郎』の作中に「妙な人」という文字はない。「妙」の字は39回現れるが、その全てが三四郎の属性ではなく、むしろ均等に振り分けられている印象がある。張建明が何故「三四郎は何度も「妙な人」といわれている」と書いたのか、私には解らない。しかしこれは教育者にとっては単なるミスでは済まされないことだ。

 こうした曲解がまかり通ってしまうこと、こうした曲解が誰か一人のものでないことが私には恐ろしい。私の本を購読して深く反省してもらいたい。生きている間に。






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