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夏目漱石論2.0

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大粒な霰にあひぬ鉢叩 夏目漱石の俳句をどう読むか113

大粒な霰にあひぬ鉢叩 夏目漱石の俳句をどう読むか113

大粒な霰にあひぬうつの山

大粒な霰ふるなり薄氷

大粒の霰降るなり石畳

 

 宇津の山で大粒の霰に降られたよ、という程度の句意であろう。

 しかし大粒の霰はもう雹である。

大粒の霰は雹なりうつの山

 霰に打たれたと「うつ」がかかっているのかなあ?

十月のしぐれて文も参らせず 

 解説によるとこの句の署名は「瀬石」だそうだ。

 うむむ。

 これは「夏目漱石はいつから夏目漱石なのか

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曼殊沙華雀蛤とは凡夫なり 夏目漱石の俳句をどう読むか112

曼殊沙華雀蛤とは凡夫なり 夏目漱石の俳句をどう読むか112

曼殊沙華あつけらかんと道の端

 解説に一茶に

女郎花あつけらかんと立ちにけり

 という類似句があることが記されている。

 

なんだかなあという感じである。

 多数決だと「立てりけり」だろうか。「立ちにけり」はこの一例だけ。どうする岩波さん?

 そのままでいいの?

 直した方がよくない?

 少なくとも併記だよね。

 この句は例の『漱石俳句研究』でも大真面目に議論されている。三人と

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吉本隆明の『日本近代文学の名作』をどう読むか① 漱石は金の話ばかり書いていたのに

吉本隆明の『日本近代文学の名作』をどう読むか① 漱石は金の話ばかり書いていたのに

 吉本隆明の『日本近代文学の名作』で最初に取り上げられているのが夏目漱石の『こころ』である。この選択そのものはとても素晴らしい。

 二人出たんだから「一度」では済まないだろう。しかしまあ言わんとしていることは解る。吉本はまず漱石に『猫』から『明暗』まで一度も停滞がないと驚いて見せる。
 これは本当にそうだが、病気で中断した『行人』の凄まじさに気がつけば、またさらに驚くことだろう。(もう遅いけど。

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尼寺や松三本の立ちけらし 夏目漱石の俳句をどう読むか111

尼寺や松三本の立ちけらし 夏目漱石の俳句をどう読むか111

尼寺や芥子ほろほろと普門品

 解説に「普門品(ふもんぼん)は観音経」とある。

 尼寺と芥子の因縁はわからない。

 そのまま受け止めれば観音経が読まれているなか芥子がほろほろと散っている尼寺である事よ、という程度の意味か。

 芥子は一二メートルの高さにもなる草花なので樹木から花が散るような眺めではあるまい。「ほろほろ」は種子が零れ落ちる様子なのかもしれない。

尼寺や芥子の散り込む日なされ?

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石原千秋の『こころ』の読みの水準について① そう単純な話ではない

石原千秋の『こころ』の読みの水準について① そう単純な話ではない

原因はそこではない

 厳密にいうと、これは誤りですね。

 ここから「先生」は「血のつながった叔父に裏切られて人間不信となり」というロジックが生まれてきたものと思われますが、この後「先生」は旧友に土地の処分を依頼し、その代金を受け取っているのです。人間不信ではそういうことはできません。

 それでも「先生」は「血のつながった叔父に裏切られて人間不信となり」と言いたくなるような心情が吐露されていま

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石原千秋の『三四郎』に関する読みの水準について③ 全然足りない 

石原千秋の『三四郎』に関する読みの水準について③ 全然足りない 

色を隠しているのに気がつかない

 石原千秋は「着物の色は何と云う名か分からない」という『三四郎』の一節を引いた後、美禰󠄀子に対する記述が類型的ではない、美禰󠄀子の「肉体」に読者の関心が集中するように書かれている、と指摘する。

 ふむ。

 つまり、『三四郎』が『野分』の悪戯を経ていよいよ「何色か良く解らない話」なのに「色の出し方がなかなか洒落ていますね」と評される絵画的作品であることを見逃

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石原千秋の『三四郎』に関する読みの水準について② 大変立派だ

石原千秋の『三四郎』に関する読みの水準について② 大変立派だ

 例えば夏目漱石の『こころ』の主人公「私」の母が「お光」であることを思ってみると、『野分』において「生徒を煽動して白井道也を追い出した教師」が描かれることによって『坊っちゃん』の山嵐が実は生徒を煽動していたのではないかという疑問がわいてくるのと同じような意味で、『それから』において平岡の勤めていた銀行で帳簿に穴をあけた「関」が、『こころ』においては「私」の妹の婿として現れることで遺産相続ではもめそ

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石原千秋の『三四郎』に関する読みの水準について① 誤読である。

石原千秋の『三四郎』に関する読みの水準について① 誤読である。

 うどんより太いそうめんはない。ちくわぶの原料は竹輪ではない。その程度の意味に於いて石原千秋は近代文学の枠組みに属するも、最も近代文学2.0に近い存在と言っていいかもしれない。引用部分でさえドキッとする人もいなくもないだろうからひとまずそう言っておいても良い。目線と視点のすり替えなどなかなか気がつきにくいところではあるからだ。

 しかし夏目漱石の小説は既に見てきたように「主人公目線」と「全知視

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明け易き蟹はひ上るあら滝や 夏目漱石の俳句をどう読むか110

明け易き蟹はひ上るあら滝や 夏目漱石の俳句をどう読むか110

あら滝や満山の若葉皆震ふ

 この句は「荒滝」の表記例の方が多いようだ。

 無理に開かない方が厳めしい感じがしてよいように思う。

 まあ、和歌俳句の表記は写す人によって勝手に変えられがちのもので、六百番歌合せの時だと文字までいじられていたのでこのくらいの差は仕方のないものなのであろうか。

 こんなのもある。

 まるで漱石の代表句でもあるかのように取り扱われている。

満山の雨を落とすや秋の

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春の雨彼岸桜は木魚哉 夏目漱石の俳句をどう読むか109

春の雨彼岸桜は木魚哉 夏目漱石の俳句をどう読むか109

春の雨あるは順礼古手買

 この同じ本で例の「朱鞘」の句は正岡子規の句だと認識されているので、やはり岩波書店が間違っているんじゃないかな。

 解釈はまあ鼠骨の書いている通り、春の雨で家にこもっていたら順礼と古手買がやってくる……。

 いやいや、これは順礼、古手買、節季候に化けて、家々を覗いているんじゃないの、探偵しているんじゃないのと、漱石の被害妄想、監視されている妄想が出てきた句なのではない

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子規の句か漱石の句かほととぎす 夏目漱石の俳句をどう読むか108

子規の句か漱石の句かほととぎす 夏目漱石の俳句をどう読むか108

裏表濡れた衣干す榾火哉

 解説には季語が榾火というだけの説明しかない。

 よいこのみんなはこの句の意味が解っているのであろうか。

 洗濯物を「裏表濡れた衣」とは言わないだろうし、外側から水が内側まで染みたわけでもなかろう。これは外側と内側が別々の要因でぬれた衣と見做すべきではないか。

 そうでなければ

裏にまで染みた衣干す榾火かな 

 となる筈である。では内側が濡れた要因とは何か。それ

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からつくや昨日碓氷に榾火かな 夏目漱石の俳句をどう読むか107

からつくや昨日碓氷に榾火かな 夏目漱石の俳句をどう読むか107

親の名に納豆売る児の憐れさよ

 川柳のようなリズムでさらりと解らないことが詠まれている。解説の人は解っていて、あえてなにも解説していないのかな? 

 本当にそうなの?

 私にはこの「親の名に」の意味が解らない。「に」が解らない。場所、結果、方向、目的、状態、理由、相手、資格、強意……。

 手段かな?

 つまり「親の名で」、

 たとえば「え~い、長太郎納豆いらんかね」と親の名を冠した納豆

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穴蛇を檀家に配る冬の川 夏目漱石の俳句をどう読むか106

穴蛇を檀家に配る冬の川 夏目漱石の俳句をどう読むか106

穴蛇の穴を出でたる小春哉

 解説に「穴蛇は冬眠していた蛇」とある。

 これは難しい。

穴蛇のちょいと出てみる小春かな

 これなら解る。

 しかし蛇の穴は見えても蛇がいるかいないかは、棒きれか何かで突いてみなくては確かめられない。
 つまりそこに穴だけあっても「穴蛇の穴を出でたる」かどうかは厳密には解らないわけだ。すると漱石はいかもの食いをしようと蛇を探して歩いていたのであろうか。
 それ

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古池や冬の日残る枯れ尾花 夏目漱石の俳句をどう読むか105

古池や冬の日残る枯れ尾花 夏目漱石の俳句をどう読むか105

蒲殿の愈悲し枯れ尾花

 漱石がまた歴史ミステリーを仕掛けてくる。本当に伊予というのは訳の分からない土地柄で、あちこちから伝説を引っ張ってくるのが生きがいなのであろうか。

 新田義宗の墓、これは仕方ない。

 三好秀保は漱石の責任だ。

 しかしこの句には「範頼の墓に謁して二句」と添えられている。源範頼は……確かに伝説があるな。

 解説には諸説が紹介されている。

 漱石は果たしてどんな感じだ

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