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丸谷才一の『三四郎』論について① 読み返しながら書くべき

 亭主が満州へ出稼ぎに出ている職工の妻(「三四郎と東京と富士」『闊歩する漱石』所収/丸谷才一/講談社/2000年)

 こう名古屋で三四郎の風呂場に入ってくる女について丸谷才一は書いているが、作中では、

 海軍の職工をしていたが戦争中は旅順の方に行っていた。戦争が済んでからいったん帰って来た。まもなくあっちのほうが金がもうかるといって、また大連へ出かせぎに行った。はじめのうちは音信もあり、月々のものもちゃんちゃんと送ってきたからよかったが、この半年ばかり前から手紙も金もまるで来なくなってしまった。不実な性質ではないから、大丈夫だけれども、いつまでも遊んで食べているわけにはゆかないので、安否のわかるまではしかたがないから、里へ帰って待っているつもりだ。(夏目漱石『三四郎』)

 とある。つまり元は海軍の職工だったが、満州の玄関口の大連に出稼ぎに行った夫の安否は不明なので、元妻かもしれないということだ。細かいようだが重要なことだ。大連を満州に置き換えるのはやや乱暴ながら、ぎりぎり完全な間違いとは言えない。しかし職工の妻と読み違えたからには、夫の安否が不明であり、仕送りもないところの女の不安を捉えきれているとは言えないし、その上での女の行動を単に色欲と見間違えるミスをしていまいか。太田静江がパンパンになろうかと考えていたという話にも通じるが、この和歌山の女のふるまいは必死な駆け引きではなかったのか。高等学校の帽子をかぶって上京する青年、それはいかにもおいしい獲物であり、振り返って迄こちらを眺めていたからには、相手もそれなりに気がありそうなのである。何も金を貰いたいとまでの魂胆はなく、とりあえず何かあっても良いかとそんな魂胆があっても不思議ではない。

 冒頭での女と三四郎、じいさんの座席の位置関係には既に石原千秋博士の指摘を端緒とする様々な議論があるが、少なくとも三四郎がこの女を物欲しげに見つめていたことは確かなのである。

 『三四郎』では二つの芝居があしらはれてゐて、それはどちらもずいぶんドラマチック、といふよりもむしろメロドラマチックな、派手な仕立てのものだからである。一つはアフラ・ベーンの『オルノーコ』の劇化で、このなかにあの"Pity's akin to love"があるし、もう一つは文藝協会の上演する『ハムレット』である。(「三四郎と東京と富士」『闊歩する漱石』所収/丸谷才一/講談社/2000年)

 一体全体丸谷才一は何を書いているのだ。私が読んだ『三四郎』にはアフラ・ベーンの『オルノーコ』の劇化はない。それはあくまで本の話題として現れるだけだ。

「アフラ・ベーンか」
「ぜんたいなんです、そのアフラ・ベーンというのは」
「英国の閨秀作家だ。十七世紀の」
「十七世紀は古すぎる。雑誌の材料にゃなりませんね」
「古い。しかし職業として小説に従事したはじめての女だから、それで有名だ」
「有名じゃ困るな。もう少し伺っておこう。どんなものを書いたんですか」
「ぼくはオルノーコという小説を読んだだけだが、小川さん、そういう名の小説が全集のうちにあったでしょう」
 三四郎はきれいに忘れている。先生にその梗概を聞いてみると、オルノーコという黒ん坊の王族が英国の船長にだまされて、奴隷に売られて、非常に難儀をする事が書いてあるのだそうだ。しかもこれは作家の実見譚だとして後世に信ぜられているという話である。
「おもしろいな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちゃあ」と与次郎はまた美禰子の方へ向かった。
「書いてもよござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」
「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でもいいじゃありませんか。九州の男で色が黒いから」
「口の悪い」と美禰子は三四郎を弁護するように言ったが、すぐあとから三四郎の方を向いて、
「書いてもよくって」と聞いた。その目を見た時に、三四郎はけさ籃をさげて、折戸からあらわれた瞬間の女を思い出した。おのずから酔った心地である。けれども酔ってすくんだ心地である。どうぞ願いますなどとはむろん言えなかった。(夏目漱石『三四郎』)

  どうも丸谷才一は混乱している。この「書いてもよくって」に注目しないならば、「三四郎はこの狭い囲いの中に立った池の女を見るやいなや、たちまち悟った。――花は必ず剪って、瓶裏にながむべきものである。」も「同県同郡同村同姓花二十三年」も見逃したことになるのではなかろうか。これを見なければ、とても『三四郎』を読んだとは言えない。「書いてもよくって」で眺める者と眺められる者が逆転していることに気が付いていないのだ。美禰子が花の代理であることにも気が付いていないのだ。


「あの小説が出てから、サザーンという人がその話を脚本に仕組んだのが別にある。やはり同じ名でね。それをいっしょにしちゃいけない
「へえ、いっしょにしやしません」
 洋服を畳んでいた美禰子はちょっと与次郎の顔を見た。
その脚本のなかに有名な句がある。Pity's akin to love という句だが……」それだけでまた哲学の煙をさかんに吹き出した。
「日本にもありそうな句ですな」と今度は三四郎が言った。。(夏目漱石『三四郎』)

 広田がわざわざいっしょにしてはいけないと断っているのに一緒にしてしまっている。作中で劇化されるのは「蘇我入鹿の大化の改新」だろう。

 舞台ではもう始まっている。出てくる人物が、みんな冠をかむって、沓をはいていた。そこへ長い輿をかついで来た。それを舞台のまん中でとめた者がある。輿をおろすと、中からまた一人あらわれた。その男が刀を抜いて、輿を突き返したのと斬り合いを始めた。――三四郎にはなんのことかまるでわからない。もっとも与次郎から梗概を聞いたことはある。けれどもいいかげんに聞いていた。見ればわかるだろうと考えて、うんなるほどと言っていた。ところが見れば毫もその意を得ない。三四郎の記憶にはただ入鹿の大臣という名前が残っている。三四郎はどれが入鹿だろうかと考えた。それはとうてい見込みがつかない。そこで舞台全体を入鹿のつもりでながめていた。すると冠でも、沓でも、筒袖の衣服でも、使う言葉でも、なんとなく入鹿臭くなってきた。実をいうと三四郎には確然たる入鹿の観念がない。日本歴史を習ったのが、あまりに遠い過去であるから、古い入鹿の事もつい忘れてしまった。推古天皇の時のようでもある。欽明天皇の御代でもさしつかえない気がする。応神天皇や聖武天皇ではけっしてないと思う。三四郎はただ入鹿じみた心持ちを持っているだけである。芝居を見るにはそれでたくさんだと考えて、唐めいた装束や背景をながめていた。しかし筋はちっともわからなかった。そのうち幕になった。

 つまり丸谷才一は「三四郎はただ入鹿じみた心持ちを持っているだけである」というぎろりとした表現にも気が付いていないことになる。これは『三四郎』を論じるうえであまりにも杜撰なふるまいではあるまいか。ここには日本歴史を習ったのが、あまりに遠い過去であるからと実に奇妙な記述がある。二十三歳の三四郎に遠い過去などなかろう。ここにはいくらでも掘り下げられる問題がある。

 これもまた丸谷才一だけの問題ではないが、夏目漱石作品を論じる場合、少なくとも自分の記憶力が夏目漱石を上回ると思うのでなければ、読み返しながら書くべきではなかろうか。そうでないとこんなことになってしまう。もう丸谷才一はこの世になく取り返しがつかない。本当に残念である。

【付記】Pity's akin to loveについて

「少しむりですがね、こういうなどうでしょう。かあいそうだたほれたってことよ」
「いかん、いかん、下劣の極だ」と先生がたちまち苦い顔をした。(夏目漱石『三四郎』)

 広田は与次郎の訳を下劣の極みとして認めない。この点について医学博士であり精神医学が専門の土井健郎は『漱石の心的世界━━「甘え」による作品分析』(光文堂、平成6年)の中で、憐憫は愛に近縁のものであるとまずは直訳し、近縁とは同じではないので、与次郎の訳を広田が認めなかったのではないかと説明している。この「憐憫」は土井の論の中で「憐憫と理解を含むもの」「同情と理解」と意味がずらされていく。土井は「彼女(美禰子)が彼(三四郎)を理解したごとく、彼女自身も彼によって理解されることをひそかに望んでいた、といってよいのではなかろうか」と解釈する。つまり三四郎を愚弄するものでもなく、三四郎を救う女神でもない自分を理解してもらいたかったのだと。

 最後にうれしいことを思いついた。美禰子は与次郎に金を貸すと言った。けれども与次郎には渡さないと言った。じっさい与次郎は金銭のうえにおいては、信用しにくい男かもしれない。しかしその意味で美禰子が渡さないのか、どうだか疑わしい。もしその意味でないとすると、自分にははなはだたのもしいことになる。ただ金を貸してくれるだけでも十分の好意である。自分に会って手渡しにしたいというのは――三四郎はここまで己惚れてみたが、たちまち、
やっぱり愚弄じゃないか」と考えだして、急に赤くなった。もし、ある人があって、その女はなんのために君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎はおそらく答ええなかったろう。しいて考えてみろと言われたら、三四郎は愚弄そのものに興味をもっている女だからとまでは答えたかもしれない。自分の己惚れを罰するためとはまったく考ええなかったに違いない。――三四郎は美禰子のために己惚れしめられたんだと信じている。(夏目漱石『三四郎』)

 そう読むと美禰子の急な結婚はむしろ三四郎が美禰子の気持ちを受け入れなかった結果であるような感じさえしてきてしまう。

「悪くって? さっきのこと」
「いいです」
「だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」
 女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――必竟あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。三四郎は、もう一ぺん、
「だから、いいです」と答えた。(夏目漱石『三四郎』)

 確かに三四郎と美禰子の気持ちは通じていない。


 三四郎は懐に三十円入れている。この三十円が二人の間にある、説明しにくいものを代表している。――と三四郎は信じた。返そうと思って、返さなかったのもこれがためである。思いきって、今返そうとするのもこれがためである。返すと用がなくなって、遠ざかるか、用がなくなっても、いっそう近づいて来るか、――普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びている。
「里見さん」と言った。
「なに」と答えた。仰向いて下から三四郎を見た。顔をもとのごとくにおちつけている。目だけは動いた。それも三四郎の真正面で穏やかにとまった。三四郎は女を多少疲れていると判じた。
「ちょうどついでだから、ここで返しましょう」と言いながら、ボタンを一つはずして、内懐へ手を入れた。
 女はまた、
「なに」と繰り返した。もとのとおり、刺激のない調子である。内懐へ手を入れながら、三四郎はどうしようと考えた。やがて思いきった。
「このあいだの金です」
「今くだすってもしかたがないわ」(夏目漱石『三四郎』)

 この時点で美禰子の縁談はまとまっていない。この会話の前に、

「でも兄は近々結婚いたしますよ」
「おや、そうですか。するとあなたはどうなります」
「存じません」(夏目漱石『三四郎』)

 …とあるからだ。

「本当は金を返しに行ったのじゃありません」
 美禰子はしばらく返事をしなかった。やがて、静かに言った。
「お金は私もいりません。持っていらっしゃい」
 三四郎は堪えられなくなった。急に、
「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」と言って、横に女の顔をのぞきこんだ。女は三四郎を見なかった。その時三四郎の耳に、女の口をもれたかすかなため息が聞こえた。
「お金は……」
「金なんぞ……」
 二人の会話は双方とも意味をなさないで、途中で切れた。(夏目漱石『三四郎』)

 これが遅すぎる告白であることは、美禰子のため息と、この直後「背のすらりと高い細面のりっぱな人」が現れ、三四郎が「大学の小川さん」と紹介されることから明らかであろう。

 長い手紙を巻き収めていると、与次郎がそばへ来て、「やあ女の手紙だな」と言った。ゆうべよりは冗談をいうだけ元気がいい。三四郎は、
「なに母からだ」と、少しつまらなそうに答えて、封筒ごと懐へ入れた。
「里見のお嬢さんからじゃないのか」
「いいや」
「君、里見のお嬢さんのことを聞いたか」
「何を」と問い返しているところへ、一人の学生が、与次郎に、演芸会の切符をほしいという人が階下したに待っていると教えに来てくれた。与次郎はすぐ降りて行った。(夏目漱石『三四郎』)

 この時点で美禰子の縁談は決まっていたのだろう。日にちの勘定ができないがどうも急である。確かに美禰子の方こそ三四郎にふられた感がないことはない。

 Pity's akin to loveをDeepLは「なさけはひとのためならず」と訳す。どうしたDeepL。

 いずれにせよ美禰子は三四郎を愚弄したのではなかろう。

「おもしろいな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちゃあ」と与次郎はまた美禰子の方へ向かった。
「書いてもよござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」
「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でもいいじゃありませんか。九州の男で色が黒いから」
「口の悪い」と美禰子は三四郎を弁護するように言ったが、すぐあとから三四郎の方を向いて、
「書いてもよくって」と聞いた。その目を見た時に、三四郎はけさ籃をさげて、折戸からあらわれた瞬間の女を思い出した。おのずから酔った心地ここちである。けれども酔ってすくんだ心地である。どうぞ願いますなどとはむろん言いえなかった。(夏目漱石『三四郎』)

 すくんだのは三四郎である。







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