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『三四郎』を読む⑥ やり過ごされる漱石


 夏目漱石という「余裕派」の『三四郎』の冒頭付近では、こんな日露戦争批判が語られる。

 自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとうあっちで死んでしまった。いったい戦争はなんのためにするものだかわからない。あとで景気でもよくなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんなばかげたものはない。世のいい時分に出かせぎなどというものはなかった。みんな戦争のおかげだ。(夏目漱石『三四郎』)

 これは今でこそ正論だ。賠償金を得られなかった日本はそこから貧しい国になる。よく調べてみるとこのころから大量の食い詰め者がでて世界中に移民し、また移民を制限され、移民を拒否されている。

 結局ロシア、ソビエトとの関係、日露戦争の負の遺産は現在に至るまで解消していない。しかし例えばこんなものを大東亜戦争当時に新聞小説で書くことはできなかっただろう。それこそ当時としてもかなり危険なことではなかったかと推察するもどちらともどちらでないとも根拠が見つからない。それどころか、夏目漱石は何故か徹底的にやり過ごされているのだ。

 日露戦争と当時の文学者たちの姿勢とは、この黒島傳治の文章に詳しいようだが……

 自然主義運動に対立して平行線的に進行をつゞけた写生派、余裕派、低徊派等の諸文学(夏目漱石などその門下、高浜虚子、長塚節、永井荷風、谷崎潤一郎等)については、森鴎外が、軍医総監であったことゝ、後に芥川龍之介が「将軍」を書いている以外、軍事的なものは見あたらない。たゞ、それらの文学と深い関係のある、或る意味ではその先覚者と目される正岡子規の、日清戦争に従軍した際の句に、

行かばわれ筆の花散る処まで
いくさかな、われもいでたつ花に剣
秋風の韓山敵の影もなし

 等があるばかりである。
 しかし、それは、この写生派、余裕派、低徊派等が戦争に対して反対であったからではなく、多くが無関心だったからである。(黒島傳治『明治の戦争文学』)

 ……とこれでは何とも判別できない。軍事的なものは見あたらないとは殆ど見逃してしまっていると言ってよい。『吾輩は猫である』の「大和魂のうた」も『趣味の遺伝』や『坊っちゃん』にもまるで気が付かないのだ。これでは「九月十一日から講義が始まります」と貼り紙があっても誰も気が付かないだろう。いまだに『こころ』のKが姓でないことに、高橋源一郎も島田雅彦も気が付いて居ないのだ。

 いや、黒島傳治は全く資料に当っていないわけではないのだ。

 このほか、徳田秋声、広津柳浪、小栗風葉、三島霜川、泉鏡花、川上眉山、江見水蔭、小杉天外、饗庭篁村、松居松葉、須藤南翠、村井弦斎、戸川残花、遅塚麗水、福地桜痴等は日露戦争、又は、日清戦争に際して、いわゆる「際物的」に戦争小説が流行したとき、それぞれ、こぞって動員されている。これは、取りも直さず、これらの諸作家が平常の如何に関らず戦争に際して、動員され得るだけの素地を持っていたことを物語るものである。岩野泡鳴には凱旋将軍を讃美した詩がある。(黒島傳治『明治の戦争文学』)

 こうはっきり指摘しているのにも関わらず夏目漱石の日露戦争批判はやり過ごされている。

 黒島傳治が軍事的なものは見あたらないと決めつけようと、どうも夏目漱石は明治政府に物申している。「あとで景気でもよくなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんなばかげたものはない。」とはそのまま日比谷騒動、日比谷焼打事件の主張そのものだ。『三四郎』はその三年後1908年(明治41年)9月に連載が始まる。6月には赤旗事件が起きている。

1905(明治38)年1月、『平民新聞』が1周年記念に『共産党宣言』を翻訳・掲載したことを契機に、幸徳らは逮捕、印刷機械等が没収され、『平民新聞』は廃刊に追い込まれた。(ウイキペディア「石川三四郎」より)

 そもそも三四郎という名前さえも「たゞ尋常である」という訳ではないのだ。石川三四郎と一字違いだ。それでいて「入鹿じみた心持でいる」のだ。

 それにしても日比谷焼打事件の参加者と取り締まる官憲ではどちらがどれくらい異常なのだろうか。乃木将軍の凱旋に歓喜の万歳を繰り返す群衆と、代助ではどうだろう。借りそこなった本を返すことのできる三四郎は異常だが、坂口安吾が言う通り、戦争はけた違いのデカダンである。

 小平某という奴があの最中に女の子を強姦しては殺していたという。あの最中に人を殺すとは妙な奴だ。つまり、人を殺すという良心――人を殺して自分の生きのびる手段にしようという尋常な良心が、まだ麻痺しないでノルマルに動いていたらしいや。
 一時間後には自分がどうなるか分りやしないということが唯一の人生の信条となりきっていた筈のあの最中に、自分の罪を隠すために人を殺すというような平常の心がチャンと時計のように動いているのは異常なことさね、あの場合に於てはまさに驚くべき良心だね。
 あの時の大半の人間というものは自分の手で人を殺すことも忘れていたようなものだ。どうせみんな死んじまい、焼けちまい、バラバラになっちまうんだ。我々の理性も感情も躾けもみんな失われ一変して、戦争という大きさのケタの違うデカダンが心や習性の全部にとって代っていたのだ。それに比べると、小平某はあの最中に良心もタシナミも失わず、はるかにデカダンではなかったのさ。あの野郎はフテエ野郎だというのは戦争がすんでからの話さ。
 いったん戦争になッちまえば、健全なのは小平君ぐらいのもので、人間は地獄の人たちよりもはるかに無感動、無意志の冷血ムザンな虫になるだけのことだ。おそらくそのとき何が美しいと云ったってサクレツする原子バクダンぐらい素敵な美はないだろう。あの頃でも自分をバクゲキにくる敵の飛行機が一番美しく見えた。そして、その美を見ることができた代りに死ななければならないということは、たいしたことじゃアないのさ。人を殺すのが戦争じゃないか。戦争とは人を殺すことなんだ。(坂口安吾『もう軍備はいらない』)

  借りそこなった本を返したこと、突然葡萄酒が現れることまでは、仮に「漱石の意図しない書き損じ」の可能性を否定できない。しかし九月十一日の取り扱いは書き損じではありえない。何故そこなのかという意味は明確ではないが、百年以上経過して明確になったことがある。それは夏目漱石が天皇や明治政府、日露戦争に文句を言っていることに(小森陽一、石原千秋といった極めてわずかな例外を除いて)誰も気が付かず、九月十一日の不思議に誰一人気が付かなかったということである。

 結果として漱石は摩訶不思議は書けないと予告しながら摩訶不思議を書いた。三四郎は「おれ」ほど人気者にはならなかったものの異常者と呼ばれずに済んだ。こんなばかげたものはない、と日露戦争を批判しても漱石は結果として無事だった。むしろ一作ごとに人気は増していた。それは小川三四郎という名前から葡萄酒までいくつもの謎が仕込まれた『三四郎』を、「青春小説の金字塔」として読む程度の人々が殆どだと漱石が知っていたからではなかろうか。

 漱石は『二百十日』『野分』ではあからさまな社会批判を書いた。ところが『虞美人草』程度に捻れば、社会批判をしていてもたいていの読者がそれと気が付かないことを手応えとして感じ取ったのではなかろうか。立憲政体を雅号だと書いても叱られないから結構なことだ。「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものを斃す柔らかい武器だよ」と漱石は気が付いた。結果として、九月十一日の不思議もご愛嬌の目くらましだと言ってよいのではなかろうか。

 そのうち人品のいいおじいさんの西洋人が戸をあけてはいってきて、流暢な英語で講義を始めた。三四郎はその時 answerアンサー という字はアングロ・サクソン語の and-swaruアンド・スワル から出たんだということを覚えた。それからスコットの通った小学校の村の名を覚えた。いずれも大切に筆記帳にしるしておいた。その次には文学論の講義に出た。この先生は教室にはいって、ちょっと黒板をながめていたが、黒板の上に書いてある Geschehen という字と Nachbild という字を見て、はあドイツ語かと言って、笑いながらさっさと消してしまった。三四郎はこれがためにドイツ語に対する敬意を少し失ったように感じた。先生は、それから古来文学者が文学に対して下した定義をおよそ二十ばかり並べた。三四郎はこれも大事に手帳に筆記しておいた。午後は大教室に出た。その教室には約七、八十人ほどの聴講者がいた。したがって先生も演説口調であった。砲声一発浦賀の夢を破ってという冒頭であったから、三四郎はおもしろがって聞いていると、しまいにはドイツの哲学者の名がたくさん出てきてはなはだ解しにくくなった。(夏目漱石『三四郎』)

 例えばこうしたドイツ語、あるいはドイツに関する記述も、独文科の小宮から三四郎のイメージをほんの少し引きはがそうという目くらましであったかもしれない。




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