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夏目漱石論2.0

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2024年3月の記事一覧

まずちゃんと読もうよ 本当の文学の話をしようじゃないか⑬

まずちゃんと読もうよ 本当の文学の話をしようじゃないか⑬

 結局人文学系の学者というのは自分の「専門分野」においてさえ、事実確認する義務を免除されている、という状況があることが問題の根本ではないかと思う。「会社法」を専門としながら会社法の運営を知らず、株主総会に参加してもいない。何なら自分が問題視した株主提案を読んでさえいない。ネット記事の拾い読みで批判することが許されている。そういういい加減なものが文学以外のアカデミックな領域に拡大しているのではないか

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その一人があらわれる日の為に 本当の文学の話をしようじゃないか⑫

その一人があらわれる日の為に 本当の文学の話をしようじゃないか⑫

 芥川はともかく三島由紀夫もインターネットを知らずに死んだ。それはとても想像できない世界だったのだ。例えば『AKIRA』にもスマホは出てこない。インターネットのない時代に、何故か中国の脅威とテレパシー連携による集合知の可能性について書いたSF作家がいた。

 ここには確かにうっすらとだがネットワークの発想がある。そして数年前に現実となった中国の脅威をいち早く言い当てていたことにも驚く。

 あるい

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彼柳被って浮きし峰もあり 夏目漱石の俳句をどう読むか76

彼柳被って浮きし峰もあり 夏目漱石の俳句をどう読むか76

枯柳緑なる頃妹逝けり

 え? 三島由紀夫と思ってしまうような句である。この「妹」というのが誰の妹なのか解説には何も書いていない。解説には「季=枯柳(冬)」とある。まあ「この枯柳がまだ緑だった晩春の頃、誰それの妹が亡くなってしまったのだなあ」という意味の句であろうか。
 季節が変わってから思い出すほどの因縁のある女性がいたということか。

 勿論子規の妹ではない。まさかもう嫂を偲んだ句でもなかろう

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すさましや今日時雨行く鷹の面 夏目漱石の俳句をどう読むか75

すさましや今日時雨行く鷹の面 夏目漱石の俳句をどう読むか75

すさましや釣鐘撲つて飛ぶ霰

 岩波は「撲」に「う」とルビを振っている。「ぶ」でもいいかと思ったところ、まあ、「桐油を撲(う)つ雨の音と」と『思い出すことなど』にあるから、ここは「うつ」でよいか。一人ネットで「なぐつて」と読んでいた人がいた。それはさすがになかろう。しかし『それから』では「撲(どや)される」なので要注意だ。

 この句は少し解釈を迷ったが「霰が斜めに降ってきて釣鐘に当たる様子」をす

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愛を貫くとは書いていない 本当の文学の話をしようじゃないか⑩

愛を貫くとは書いていない 本当の文学の話をしようじゃないか⑩

 知らない言葉が知っている言葉に聞こえることがある。「空耳アワー」というやつだ。それは言わずもがな脳が「曖昧認識」という便利な仕組みを作用させているから起きることで誰が悪いわけでもない。
 しかし文章読解においてそれをやってしまうと「間違い」とされる。それは仕方がない。違うものは違うのだから。

 誤読、読み間違いというのはもう少し厄介で、読み手は自分の知っている理屈の中で「解る、解る、よーく解る

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寒き夜や泥に凍るや火鉢かな 夏目漱石の俳句をどう読むか74

寒き夜や泥に凍るや火鉢かな 夏目漱石の俳句をどう読むか74

寒き夜や馬は頻りに羽目を蹴る

 そういう音が聞こえてきた、という句であろうか。

 ボコ、ボコっと。

 寒いからといってなんで羽目を蹴るのか馬に訊いてみたいような気がするけれども私は馬語が話せないし、明治二十八年には行けない。そこは想像するしかない。

 何かを不安に感じているのかな。

  まあ馬は何かと羽目を蹴るもののようだが、

 寒き夜や壁に身を揉むきりぎりす

 きりぎりすも寒かった

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天皇は乳房か 本当の文学の話をしようじゃないか⑨

天皇は乳房か 本当の文学の話をしようじゃないか⑨

 谷崎潤一郎が大谷崎であり、本物の文学者であったことを疑うものはあるまい。しかしおそらく多くの人はこの二つのことを知らなかったはずだ。それは谷崎潤一郎がこんな悲壮な覚悟で書いていたこと。

 そして谷崎の原点に小波、巖谷漣山人の「新八犬傳」があるということ。

 つまりその原点には間接的に馬琴が隠れていることにもなるが、そこは話を飛ばさず、しばし巖谷小波について考えてみよう。

 巖谷小波はさまざ

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橋立の山なき国の納豆売 夏目漱石の俳句をどう読むか73

橋立の山なき国の納豆売 夏目漱石の俳句をどう読むか73

 電気ケトルに水を入れお湯を沸かしてインスタントコーヒーを飲む。殆どそんな手軽さで、あなたはこれまでの人生を変えることができる。キンドルアンリミテッドに登録すれば、それだけで小林十之助の本は読み放題になる。そうするとこれまであなたが真実だと思っていたものがでたらめだと解る。
 そう、すべてはでたらめだった。

 たった一つの真実がここにはある。

橋立の一筋長き小春かな

 解説に「橋立は天橋立

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二度あることは三度あるっていうじゃない 本当の文学の話をしようじゃないか⑧ 

二度あることは三度あるっていうじゃない 本当の文学の話をしようじゃないか⑧ 

 読書好きとか、本が好きという人の大半は信用できない。彼らの大半は本来読めるはずのないものを読んだことにしているからである。そうでなければ「ハイポーが抜ける」で検索して私の記事が最初に出てくることはなかろう。「矢の根を伏せる」とはどんな作法なのか書かれている記事がない。言葉には意味があるのに、みな言葉に意味があることなど忘れて、ただ文字を追いながら自分の考えに耽っていたに過ぎない。

 この引用に

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我死なば我から古し榾火哉 夏目漱石の俳句をどう読むか72

我死なば我から古し榾火哉 夏目漱石の俳句をどう読むか72

乳兄弟名乗り合たる榾火哉

 このサイトによれば、この句は馬琴の『南総里見八犬伝』にちなんだ句ではないかという論文があるらしい。その論文では犬山道節と犬川荘助の再会の場面をイメージしているようである。しかしこの二人は乳兄弟ではない。犬山道節の乳母は音音、犬川荘助に実母がいた。

 乳兄弟の関係にあるのが、

①犬田小文吾の母から乳を貰った犬飼現八

②音音の子、十条力二郎・尺八郎と犬山道節

③細

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サリンジャーの焼きそば 本当の文学の話をしようじゃないか⑦

サリンジャーの焼きそば 本当の文学の話をしようじゃないか⑦

 結局文学の胆の部分というと微妙なものの微妙さを捉えることで、それは「サリンジャーの焼きそば」や「黒板の前に立っている恰好」なのではなかろうか。何か逆張りのような皮肉なような言い方ながら、これは本当のことだと思う。

 これが太宰治であれば「黄村先生の玉子どんぶり」であることは既にどこかに書いた。初期村上春樹の魅力の一つ、オールドファンを捉えた重要な要素は『グレープ・ドロップス』に見られた言語感覚

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達磨忌や茶の花折つて石蕗の花 夏目漱石の俳句をどう読むか71

達磨忌や茶の花折つて石蕗の花 夏目漱石の俳句をどう読むか71

達磨忌や達磨に似たる顔は誰

 最初この句を

達磨忌や達磨に似たる人は誰

 と読み違えて、意味のない句だなあと勘違いしかけた。この句は中身のない質問ではなくて、「達磨忌だなあ、あの達磨に似た顔の人は誰なんだろう」という感想だ。子規の評点は「◎」。

 達磨忌の句にもう一つ達磨を入れた果敢さを評価したのだろうか。

  実際達磨みたいな顔の人が現れたら驚くだろうが、おそらくここは「顔」がポイント

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 本当の文学の話をしようじゃないか⑥俗中の俗とは言ってくれるじゃないか

 本当の文学の話をしようじゃないか⑥俗中の俗とは言ってくれるじゃないか

 1/2の確率で当選するはずのペイペイスクラッチが五回連続で外れた。これは文学ではない。俗な話だ。芥川龍之介に心酔していた太宰治は、芥川の師、夏目漱石を「俗中の俗」と評した。このことに驚きつつも、私はこれまでその真意を突き詰めて考えてこなかった。

 忙しかったからである。

 しかしそろそろやっておかないと死んでしまいそうな気がしたので今日それをやってしまうことにする。左目がかなり弱っていて、右

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何となく蜜柑も今や師走かな 夏目漱石の俳句をどう読むか70

何となく蜜柑も今や師走かな 夏目漱石の俳句をどう読むか70

市中は人様々の師走かな

 子規の評点「〇」。とてもざっくりした句で、具体的には何も示していないのだが、そうした具体を放棄してみるという賺しが少しだけ褒められたというところであろうか。

 鰤でも鮭でも何か一つの師走らしさを捉えようとしても、行きかう人々に様々な師走があり、焦点が絞れないという感じがまさに忙しない師走の句になっている。

何となく寒いと我は思ふのみ

 この句には「三冬氷雪の時什

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