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愛を貫くとは書いていない 本当の文学の話をしようじゃないか⑩


 知らない言葉が知っている言葉に聞こえることがある。「空耳アワー」というやつだ。それは言わずもがな脳が「曖昧認識」という便利な仕組みを作用させているから起きることで誰が悪いわけでもない。
 しかし文章読解においてそれをやってしまうと「間違い」とされる。それは仕方がない。違うものは違うのだから。

 誤読、読み間違いというのはもう少し厄介で、読み手は自分の知っている理屈の中で「解る、解る、よーく解る」とやってしまうので、新潮社は『それから』についてこんなふうにまとめてしまう。 

長井代助は三十にもなって定職も持たず、父からの援助で毎日をぶらぶらと暮している。実生活に根を持たない思索家の代助は、かつて愛しながらも義侠心から友人平岡に譲った平岡の妻三千代との再会により、妙な運命に巻き込まれていく……。破局を予想しながらもそれにむかわなければいられない愛を通して明治知識人の悲劇を描く、『三四郎』に続く三部作の第二作。

https://www.shinchosha.co.jp/book/101005/

 岩波文庫はこんな感じ。

若き代助は義侠心から友人平岡に愛する三千代をゆずり自ら斡旋して二人を結びあわせたが,それは「自然」にもとる行為だった.それから三年,ついに代助は三千代との愛をつらぬこうと決意する.「自然」にはかなうが,しかし人の掟にそむくこの愛に生きることは二人が社会から追い放たれることを意味した.(注・解説:吉田凞生)

https://www.iwanami.co.jp/book/b248816.html

 角川文庫はこんな感じ。

友人の平岡に譲ったかつての恋人、三千代への、長井代助の愛は深まる一方だった。そして平岡夫妻に亀裂が生じていることを知る。道徳的批判を超え個人主義的正義に行動する知識人を描いた前期三部作の第2作。

https://www.kadokawa.co.jp/product/199999100108/

 筑摩はシンプル。

友人の妻 三千代 との不倫の愛。定職に就かず思索の日々を送る、知識人代助の愛の真実とは何か。詳しく利用しやすい語注付。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480020376/

 まあ、全部は拾わないけれど大体似たり寄ったりになっている。これがもう少し理屈をこねる人たちよれば「近代的自我」という概念によってもてあそばれることになる。しかしそもそもこの「近代的自我」なる概念は極めていかがわしいもので、何か物事をうまく説明しているようでありながら、どうも間が抜けている感じがする。特に『それから』の代助に関しては全く当てはまらないと私は考えている。

 知識人はまああいいとして、「個人主義」とか「愛をつらぬこう」というのは間違いである。そう見えるのは誤読である。自分が知っていることで自分が知らないことを理解し、説明しようとしてしまっている。
 ピラフを炒飯にしてしまっているのだ。

 まず代助は個人ではない。見かけは個人だが、中身は分裂している。個人と社会の対立があるのではない。

 そして「愛をつらぬこう」としているのではなく頭を焼き尽くそうとしている。

 ここは分裂した個人の中で、旅行にでも行って冷静になろうとしていた代助Aが、旅行に行かせない深層心理代助Bに対して戦いを挑んでいるので、代助Aは社会的自然の中にあり、三千代の引力に支配された深層心理代助Bを滅ぼそうとしていると読める。

 それを「いやー、素敵、代助は社会に逆らっても真実の愛をつらぬこうとしているんだわー」なんて感激するのは誤読である。

 そもそも真実の愛なんかあったかね?

 三千代を選んだのは代助の脳であり、意識ではない。三千代の名前は無意識の中からふわっと浮かび上がってきている。ここには理屈はない。そこに「自分が平岡に三千代を斡旋した」「平岡は三千代を不幸にした」「自分にも責任がある」「自分が三千代を求めることは自然だ」と理屈を足すのは全部後付けで、選択は無意識がしたことなのだ。

 要するに雨の日は味噌ラーメンが良く出る。カレー南蛮は釣られて注文する人が多い、という程度の話なのだ。それが真実の愛?

 で、知識人、なんて言っても無意識の領域は知識なんかないですから、もう鮭みたいなものでしょう。代助は知識人だからそこに気が付いたというより、これは殆ど意志と自己決定という現代脳科学の知見のレベルの話なので、もう一般的な意味の知識人の話ですらないわけですよ。漱石は「副意識下の幽冥界と僕が存在している現実界が一種の因果法によって互に感応した」などという形で意志と自己決定の問題の複雑さについて独自に研究していたから頭を焼き尽くそうとする代助というものを書いた。これを知識人の苦悩に押し込めてしまえばくそみその話に落ちてしまう。

 意志と自己決定の問題に関しては『明暗』においてさらに理屈がこねられていく。

 しかし勿論この問題がまだ現代脳科学でも完全に説明できていないように、漱石にもこれだというものが掴めていたわけではない。津田由雄は吉川夫人に操られるように温泉に行ったが、お延が吉川夫人にしつけられるのかどうかはまだ分からない。

 なぜならその続きが書かれていないからだ。

 まあ、書いていたとしても読める人間がいなければ解らないことだが。

✖社会の道徳と近代的自我の対立
〇意識と無意識の対立

✖近代知識人の苦悩
〇脳と意識の間の永遠の溝

✖愛と友情の物語
〇引力と作用の物語

✖長井代助は三十にもなって定職も持たず、父からの援助で毎日をぶらぶらと暮している。
〇高等教育を受けながらふさわしい職に就けない高等遊民が社会問題化していた時代に、代助は日本の外交問題や社会の在り方などを憂え、理想的な生き方を模索していた。


[余談]

金さ、君

そう書いてあるのに読めない人がいる。

要するに「こんなところにほくろがあったっけ?」と考えないのだ。

それでよくも……。


 左側の方なら何か適当な名前に入れ替えても気づかれない説

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