夏目漱石『それから』をどこまで正確に読めるか⑱ あれとあれが戦う話じゃないのか
これまで頑なに信じて来たもの、例えば自分自身が読書家なり、先生なり、文芸批評家なり、學者なりと自認していて、あるいはそこまでではないとしても真面な知性の持ち主であり、高校時代には芥川龍之介の書いている『羅生門』や中島敦の『山月記』はちゃんと読めたと信じていて、その上で私が書いた、
こんな記事を読んでたちまち自分の読解力を疑い、「自分はちゃんと読めていなかったのではないか」と自分自身を疑うことはまずないだろう。それが誰にでも可能ならば今更私がこんな記事を書くまでもなかったのだから。
人は簡単に自分を疑うことはできない。つまり「自分はちゃんと読めていなかったのではないか」と疑うことがあまりにも困難なので、今更私がこんな記事を書くことが可能になるのだ。
しかしそもそも昨日書いたように、「自分」などと云うものがそう確かなものではなく、自由意志とか自己決定なとど呼んできたものが錯覚であり、無意識のうちに脳が選択した結果に意識が後付けでもっともらしい理由を無理やり付け足しているのが事実なのだとしたら、つまり全く逆のことを選んでさえ、さもそれが正しいことのように理由づけされるのであれば、「自分はちゃんと読めていなかったのではないか」と疑うことのできない人の脳こそが馬鹿なのであり、あなたには何の責任もないことになる。
しかし世間的には責任は脳には向けられない。あなたに向けられる。だから脳は「自分はちゃんと読めていなかったのではないか」と疑うことのできないようにあなたを操り、罪悪感や無力感からあなたを救っているのだろう。
それでもこれまであなたが近代文学を全く読めていなかったことはゆるぎない事実なのではなかろうか?
その事実とどう向き合うのかは、脳が決めるのか、意識が決めるのか。
代助は自分の「脳髄」をコントロールしようとしている。それらは今「嫂の肉薄」と「三千代の引力」に影響を受けすぎているので、ブレイクのために旅行が必要だと考えたのだ。
しかしこの考えがどういうわけか上手く実行されない。代助は旅行に行けない。ちょうどあなたが「自分はちゃんと読めていなかったのではないか」と疑うことが出来ないのと同じように、自分の意思の力だけではどうしようもない。代助は7章で既に、
一応旅行も考えたのである。そして、12章で旅行しようと決心する。しかし何やかやとあって結局旅行にはいかない。
門をくぐる気がしなかったのも、旅行を取りやめたのも明確な意思のスタイルズといったものではなく、「なんとなく」という程度の無責任な脳の判断だろう。念のためだがこんなところでフロイトを持ち出してもマルクスを持ち出しても意味はない。代助は旅行案内を買い、旅行鞄に荷物を詰め、旅行にはいかない。いや、いけないのだ。しかしそこには自我や抑圧や階級対立があるわけではない。
そう気が付いてみるとなぜ『それから』の英訳がAndThenやDaisukeで、The Wayfarerではないのかと気になってくる。代助は最後に何をしようとしたのか。
最後には代助は「自分の脳髄を、ミルクセークの如く廻転させる為に」ではなく、「自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した」のだ。つまり代助は自分の意識に逆らう無意識の出所である脳、三千代の引力に支配される脳を焼き尽くそうと戦いを挑んでいるのだ。
しかしこの結びはこれまで単に「代助が狂った」と読まれては来なかっただろうか?
いやそもそも自分の意識に逆らう無意識の出所である脳、三千代の引力に支配される脳を焼き尽くそうと戦いを挑んでいること自体が狂気的ではないかと粘っても何も得るものはなかろう。
よく読めば『それから』は「頭」の話だった。そのことは冒頭で予告されていた。
人間は単純に頭と体でできていて、頭と脳と腹と意識とが一つであり、揺るぎのない自己があるのならば「自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した」という結びはなかろう。これは代助と脳の戦いだ。比類なき〈私〉が否定され、意識と脳が戦おうとしている。脳はこのまま焼き尽くされるのか、それとも「なんとなく」の力ですごすごと引き返えさせられるのか。
この戦いに勝者が存在し得るかどうなのかは定かではない。
ただ漱石が途轍もない小説を書いていたことだけが、ただただ確かなことだ。
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