単純でいい女だ
岩波書店『定本 漱石全集第三巻』注解には、
……とあり、漱石の皮肉が見えていない。「碌さんと圭さんの胆を寒からしめた」「木に竹を接いだように」「剛健な趣味」「惜しい事だ」「皮が厚い」「水瓜」とこれだけ念押ししているのに、気が付いていない。これはあくまでもニュアンスの話だ。しかしこれだけニュアンスを並べられて「女らしい」と受け止められてしまえば、それはもうあなたの感想ですよね、ではすまない。
小間使の作は「女らしい」が、この下女はそうではない。
小間使とお手伝いは意味が違う。小間使は下婢である。須永は主人公ではない。
ちょっきり結び
ちょっきり結びは本来男結びではないか。つまり女らしくはない。
眉を軒(あ)げて
この「眉を軒げる」という表現は、戦前には見られたが戦後には見られない用例ではなかろうか。ふりがながあるから読めるのであり、フリガナがないとちょっと読めない。意味も解るような気がしてしまうのは、「軒」の訓に「あ-げる」はなく、軒昂という時の意味としての「あがる」は「昂」にあがる・たかぶる・たかまるという意味があるからこそだろう。こういう言葉にはそろそろ注釈が必要ではなかろうか。
眉だから上げるか下げるか伸ばすか緩めるくらいしかないからぎりぎり読めるか。
火の柱
岩波書店『定本 漱石全集第三巻』注解には、
……とある。
ふう……。
私は作品の外側から余計なものを持ち込んで勝手に解釈を広げてしまうトンデモ説が嫌いだ。そういうものからできるだけ遠ざかるために、書いてあることを読み、書いていないことを読まないようにして、できるだけ丁寧に読むことを心がけて来た。無論漱石サーガの中である言葉が通常持たない意味を纏うことは否定しない。間テクスト性というレトリックを意識しないわけでもない。
しかしまず言葉は、その作品の中でどのように関連付けられるのかというところを見なくてはならないのではなかろうか。それが基本中の基本で、作品の中でどこにも繋がらない言葉が出てきたとしたら、あるいはそこに何か合図が見られたら、それから作品の外側に意味を求めるべきではないかと考えている。
何度も書いているように、間テクスト性の範囲を広げすぎると、トンデモ説が生まれる。私が『絶歌』の結びが『金閣寺』のパロディの形式になっていると断するのは、『絶歌』の作中で『金閣寺』がバイブル、自分自身の物語だと書かれているからだ。そうした合図のない間テクスト性というものを無限に認めていては何でもありになってしまう。
この塩梅を間違えている人のいかに多いことか。
そしてここで岩波は敢えて作品の外側に意識を振り向けようとしていないだろうか。
まずこの「火の柱」は直前にある会話の中に現れる「火のひかり」のことであろう。
ここに敢て『夢十夜』の鼻息を持ち出す必要があっただろうか。
木下尚江の『火の柱』は社会主義的傾向の強い作品である。注釈者の意図がこの「火の柱」に社会主義者的立場を見ることだとしたら、やはりそれは行き過ぎであろうと思われる。何故なら木下尚江の威を借りずとも漱石は本作において華族や金持ちを徹底的に攻撃しているからだ。
それにそもそも木下尚江の「昼は雲の柱となり夜は火の柱と現はれて」は耶蘇教由来である。
さらに『今昔物語』まで持ち出されてしまうと、最早何をかいわんやという気持ちになる。いくらなんでもこれは無関係だろう。
それくらいなら、熊本だけに、
こんな話や、
こんな話を拾った方がいいのではなかろうか。
天祐派
ほらね、
こんなものが後から出て來る。やっぱり夏目漱石ってタイムトラベラー?
[余談]
今では銭湯に一度も行かない人というのも珍しくないだろうから、そのうち銭湯のお湯は熱いと註釈を入れないといけない時代が来るかもしれない。あるいは地方の人もそうか。東京の銭湯は熱い。
祇園精舎だって、多分注はついていたんだろうけど、つい忘れてしまうわけだ。
そしてたまにツイッターも勉強になる。
掉さす?