歯(よはひ)されない
この「歯(よはひ)されない」に岩波はこう注解をつける。
これでもぎりぎり意味は通じなくはないが、ここはもう少し柔らかくしてはどうか。
この場合は「仲間にして貰えない」程度の意味ではなかろうか。しばらく後に「しきりに帰れと云う。しかも実際自分のためを思って帰れと云うんじゃない。仲間入をさせてやらないから出て行けと云うんである。」とある。
正式の学問をしないと
ここもディアゴスティーニ方式で書いている現在が出かかっているところ。しかし「自分はこう云う場合にたびたび遭遇して」がその後のあれこれを指しているとして何ら具体性がない。今回の配本は中身がないなと嘆くところ。
御菜には糸蒟蒻(いとごんにやく)が一皿ついていた。
ここに岩波の注はつかない。
いとこんにゃく、いとごんにゃく、両方の言い方があり、特に古い新しいの差でもないようだが、やはり近年では「糸ごんにゃく」の用例は少ない。ここは何か説明があっても良いかも。
まだ南京虫を見た事がない
岩波はここに南京虫の注を付ける。まあ、当たり前だ。
ところでここは『三四郎』の割り床とつなげて眺めると面白いのではなかろうか。三四郎は南京虫には刺されなかったがお蔭で女の言葉に刺された。
全くの生息子である
岩波は、
と注釈をつける。ここはまさに「うぶ」でよいのだが、問題は主人公が東京を逃げ出した原因に関わるところがどうもはっきりしないということである。つまり谷崎潤一郎の『卍』ではないが、女性と間違いを犯したって体の関係さえなかったら、何ということもないのではないと思えるのだ。
新辞林には「生息子」の項目がないけれど、ほかの主要な国語辞典はいずれも「女を知らないこと」を指摘している。仮に「生娘」と言って処女でなければ嘘である。
つまり『坑夫』の主人公は童貞なのだと考えられる。これは案外重要なことではなかろうか。
三斗俵坊(さんだらぼ)っちのような藁布団
岩波はこれに、
と注を付ける。たしかに国立国会図書館デジタルライブラリー内で検索すると、「棧俵法師」が51件ヒットし、「三俵法師」が17件、「さん俵法師」は15件だった。漱石が「三斗俵坊っち」と書いた理由は不明ながら、明治時代に標準とされる四斗俵(60キロ)に対して三斗俵はやや小ぶりなので、「三斗俵坊っち」はやや小ぶりなのではないかと考えられる。
そんな脂(やに)っこい身体で何が勤まるものか
この「脂(やに)っこい」に岩波は、
という注を付ける。これが、「脂(やに)っこい」ではなくて「脂(あぶら)っこい」だと、
全く別の意味になる。
かと思えば、解釈はまちまちだ。
そもそも「やにこい」に「しつこい」と「よわい」の両方の意味があるということらしい。新明解の茨城弁という解釈はいかがなものか。
篁村、ありがとう。
なるほど「にやこい」の逆さまで、当時の東京語ね。
なるほどね。ためになるねー。ためになつたよー。
[余談]
谷崎潤一郎の『或る時』に感心している人がいて、
あっちの話かと思ったら、そっちの話だった。
確かに何も言えない。