夏目漱石の遺作『明暗』の主人公の苗字が「津田」であることには、少しは遊びの要素があったのではないか、と私は考えている。その津田には津田由雄と名前まで拵えてある。小川三四郎の名が石川三四郎由来であれば、津田は津田亀治郎、津田青楓となんらかの関係があるのではないかと疑われてしかるべきであろうか。しかし夏目漱石が津田青楓に絵を習い、装丁を任せていたのは晩年に近い頃のことであり、その交際はわずかに五年足らずである。『琴の空音』は1905年(明治三十八年)7月に書かれており、ここに登場する津田、文学士津田│真方《まかた》は当たり前の理窟として津田青楓との因縁を持たないことになる。そうでなければ津田は炎のストッパーということになりかねない。
私は夏目漱石作品の登場人物に単独のモデル説を詮議することを好まない。たとえば『こころ』のKの名前は夏目金之助がモデルであろうが、その人物の造形には長兄大助(長身)ほか池田菊苗(ロンドンで二か月同居)や中村是公(親友、姓が変わる)などの要素が複雑に混ざり合い、結果として独自の人物が拵えられたのではないかと考えている。
したがって、
このKが金之助、余が金之助であると決めつける事、あるいは津田真方が文学士である以上これも金之助だとすべてモデル論で括ることには殆ど意味がなかろう。しかしこの『琴の空音』は、そうした引っかかりからどうにも逃れがたい作品なのだ。津田とKと先生という文字が一つの作品の中に現れる夏目漱石作品はこの『琴の空音』のみであり、『明暗』の津田の起源は、どうもここにあるように思われる。
余は新所帯を構えたばかり、忙しく、家へ帰って飯を食うとそれなり寝てしまう。勉強どころか湯にも碌々這入らない。どこか津田由雄に似ているが嫁はいない。婆さんと二人で暮らしているようだ。余の名は靖雄である。髪結床の下剃りの小僧が「由公」と呼ばれる。その名が「由なになに」だということだ。漱石がおそらく自らの最後になるかもしれない小説の主人公に津田由雄という男を据えたのは、津田青楓よりもむしろ『琴の空音』を思い出したからではないかと疑われる。清と云う下総生れの頬っペタの赤い下女が出てくる。とにかくいろいろと渋滞している感じなのだ。
さてその『琴の空音』の中身はと言えば、幽霊やらテレパシーやら虫の知らせやら迷信やら祟りやら因縁やらインフルエンザの話である、としか言いようがない。例によってこの手の話の常套手段として現実と非現実の相克が用いられていてる。ただしこれは英文学の誰それの手法なのだろう。私にはそれが誰それと判ずるだけの英文学の知識がない。
ない話があることになる仕掛けを三人市虎を成すというが、アマゾンやぐるなびのレビューも同じ仕掛けである。当事者ではない第三者、この場合は巡査が「黒い影が御門から出て行きました」ということで、何か正体は解らないがとにかくおかしなことが起きているということが保証されてしまう。
どうも『琴の空音』で書かれていることは、正体は解らないがとにかくおかしなことが起きているという、というところに留まる。夏目漱石は黒い影を「やみくろ」には仕立て上げない。ただ『趣味の遺伝』がやはり因縁とテレパシーの話だとすれば、『吾輩は猫である』から『明暗』まで夏目漱石作品は人知を超えた不可思議なるもの、いわゆる神秘的なものを巡って書かれてきたのではないかと改めて思わせるのがこの『琴の空音』という奇妙な作品なのである。
あるいは三四郎と美禰子が解り合うためには、テレパシーが必要だったのではなかろうか。一郎はテレパシーの研究をする。しかし通じ合うのは二郎と直である。
この天眼通は茶化されて天鼻通となる。しかし清子と再会する直前の津田の様子は尋常ではないし茶化しようがない。
津田は単なる鏡像に幽霊を見ている。この時の津田は明らかに可笑しかったのだ。それが津田の神経だけの問題ではないかもしれないことを、清子の態度が仄めかしている。
昔の男に温泉宿で偶然出会ったからと言って、青ざめて逃げ出すことはあるまい。ここは津田の幽霊のような、あるいは「暴風雨に荒らされた後の庭先」のようなものが、風呂に入ろうとする自分を待ち伏せていたから驚いたのだと読まなくてはならないだろう。ここに明示的ではない津田の怪しさがある。これは村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』にあらわれる「後ろめたい夢」あるいは『1Q84』で洗濯機からふかえりの下着を無意識に取り出す天吾を思いださせる場面だ。人間にはそういうところがある。そういうところとは、布団の匂いを嗅ぐようなことばかりではない。安直な神秘思想を離れて論じれば、そもそも生きている人間は意識と第二意識、肉体と生霊の不確かな混合物である。かなりの割合で液体だ。生命維持は小脳に任せて、大脳ではおおよそくだらないことを考えている。他人を蹴落として出世したいとか、お婆さんを突き飛ばして電車に乗りたいとか、必要以上の金が欲しいとかそんなことばかり考えている。
小林十之助の脳内メーターは、
こんな感じで、嘘と欲と愛しかない。しかしこれは頭の話だ。体の中では腸内細菌がもっと複雑なことを考えている。ゴルジ体なんかも頑張っている。だから天吾は洗濯機からふかえりの下着を取り出すのであり、ユズは殺されなくてはならなかったのだ、とは言わない。ただそういうことも起こりうる、と言いたいのだ。
例えば今日私は東十条のみらべるでアジの大葉包みフライを買って、クレジットカードで支払おうとした。しかし機械が反応しない。別のカードでも読み取りができなかった。だからこれはVISAカードの根本的な問題で、通信障害が発生しているのだとは思わない。結局そこには根本的な欠陥なり、明らかな原因なんてものはないだろう。おそらく機械の故障ですらなく、別の人が別のカードを通せばすんなり読み取り、結果としてみらべるでは「あの人のカードがおかしかったんじゃないの」で片付けてしまうんじゃないかと思うのだ。いくら高度通信技術なんていったってそういうことは「起こりうる」のだ。
肉体と生霊の不確かな混合物である人間のやることなんて本当に信用できない。
このうな丼は明らかにバランスがおかしい。しかし人間とはこういうものを思いついてしまうものなのだ。正しい形はこうであろう。
人間には節度というものが必要だ。
この「にゅるりと鰻牛丼」も真面ではない。
カレーパンサンドも。
夏目漱石くらい偉くなると村上春樹同様動詞の活用変化を勝手に変えてしまう。しかし不思議なことではなかろうか。二人とも英米文学には相当親しんでいた筈だ。
こ、き、くる、くる、くれ、こい、「来る」はか行変格活用する唯一の動詞だ。未然形 つまり「ない」「せる・させる」「れる・られる」「う・よう」を伴うときの形は「こ」だ。こない、こさせる、こられる、こよう…。
茨城弁では、キ、キ、キル、キル、キレ、キロまたはコだ。
秋田弁では
仮定形:来れ(ば)→来え(ば)/来[け](ば)
命令形:来い→来[こ]え/来[け]
将然形:来よう→来[こ]ー:来よう→来[こ]ー…となる。
津田は茨城県の人なのか? いや、これは単なる誤りだろう。夏目漱石も文法を間違い、津田は昔の女を追いかけて温泉宿で肉体と生霊に分離する。あるいは立派な変態と紳士に分離する。
たいていの人は自分が何をしているのかさえ解っていない。あなたはそういう事をなさる方なのよ、という清子の指摘は正しい。
この津田は明らかにそういうことをなさっている。待ち伏せをなさっている。自分でもおかしいと気が付いていた。
津田は確かに自分のおかしさに自覚的であった。そもそも自分を棄てて関と結婚した清子を「反逆者」と呼ぶのは真面なことではない。しかし夏目漱石作品の主人公たちは、単純な一個の人格に収まらないと見做すことで、この真面でないところの説明は可能であろうか。
どうも夏目漱石は自分の意識が現実界に閉じ込められていないことに自覚的であった気配がある。
詩論、あるいは詩人論としてはさして耳に障りはないが、これを一般の認識論に敷衍したところには神秘思想に似た閊えがある。
三島由紀夫を引き合いに出せば『金閣寺』の時点ではまだ「亡びることで完成する美」というロジックしか表出せず『午後の曳航』においてはじめて、「解剖されることで復活する英雄」というさらに奇妙なロジックが溢れ出す。『英霊の聲』を経てついに天皇を殺そうと決意した三島由紀夫のロジックは、確かに降って湧いたものではなく三島の中に長く潜伏していたもののように思える。こうした精神分析も夏目漱石独自のものである。
津田は確かに待ち伏せをしながら、そういう事をなさる自覚がない。傍から見ると矛盾になっていることに気が付かない。無意識にか有意識にか清子を反逆者と呼んでしまう。現実世界には定かではない清子の深い罪を天眼通で見抜いたかのようだ。
表面的には清子の罪は津田の自尊心を傷つけたという程度のものに留まる。
女の心変わりを反逆というのなら、そこには何かしかるべき理屈が必要だ。言ってみれば乃木将軍が静子を殺したような心変わりがあれば、乃木将軍は反逆者と呼ばれても良かろう。清子が本当に何をしたのか、二か月も散髪せず、痔瘻で、風呂にも入りたがらない上に見栄っ張りで、そのくせ薄給の津田を見限っただけの事なのか、本当のところはまだ解らない。
結末がないから永遠に解らないとは思わない。よく調べればどこかに書いてあるかもしれない。書いていなければ副意識下の幽冥界を訪ねて、書いていないことを読めばいいのだ。