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夏目漱石『それから』をどこまで正確に読めるか⑰ 無意識はどこまで考えているか


 夏目漱石の『それから』が自我とか意識と言うものを繰り返し疑いつつ、しかも自分と云うものを腸の皴にまで拡大しながら、代助の無意識を試しているような作品であることに対して、私は自分が右手一本で文字を打ち、それが半ば無意識であり、意識しては打てないことを以て半ば疑い半ば同意してきた。それにしても独特な感覚の捉え方だと書いて来た。

 しかしこれはやはり夏目漱石がタイムトラベラーである証拠の一つであるかもしれない。

 どうも代助は近代的自我などというものではなく、無意識に動かされている。

 これまで暗黙知と呼ばれていたものが、最新の脳科学では無意識と呼び直され、自分の意思ではなく無意識が意思決定していることが明らかになりつつある。

 この無意識を前提にすると、代助のあの脅迫のような告白の意味がようやく明らかになるのではなかろうか。

「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を貴方に話したい為にわざわざ貴方を呼んだのです」
 代助の言葉には、普通の愛人の用いる様な甘い文彩を含んでいなかった。彼の調子はその言葉と共に簡単で素朴であった。寧ろ厳粛の域に逼っていた。但、それだけの事を語る為に、急用として、わざわざ三千代を呼んだ所が、玩具の詩歌に類していた。

(夏目漱石『それから』)

 まず三千代を選んだのは代助の脳であり、意識ではない。この告白に「愛している」の一言もないのは、無意識が引力に反応しただけだからである。一応理屈で考えると三千代が金を借りに来るところ、百合を買ってきて昔に戻そうとしたところ、指輪を見せるところが引力である。当然三千代も代助に「夫から私を奪ってください」とは明言していない。しかし引力を放っていたのは確かだ。その引力に無意識が反応しただけなので代助の言葉は非論理的である。

 そもそも「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ」というのは理屈ではない。「どうしても」は「なにがなんでも」と同じで理屈を拒否する言葉だ。子供がぐずるうちに理由がなくなるのと同じだ。そしてその選択が無意識の領域からふわっと意識に登ってくる経過を漱石が正確に描いてもいることが分かる。

「妙なのね、そんなに厭がるのは。――厭なんじゃないって、口では仰しゃるけれども、貰わなければ、厭なのと同おんなしじゃありませんか。それじゃ誰か好きなのがあるんでしょう。その方の名を仰おっしゃい」
 代助は今まで嫁の候補者としては、ただの一人も好いた女を頭の中に指名していた覚がなかった。が、今こう云われた時、どう云う訳か、不意に三千代という名が心に浮かんだ。つづいて、だから先刻云った金を貸して下さい、という文句が自ら頭の中で出来上った。――けれども代助はただ苦笑して嫂の前に坐っていた。

(夏目漱石『それから』)

 確かに三千代の名前は無意識の中からふわっと浮かび上がってきている。ここには理屈はない。そこに「自分が平岡に三千代を斡旋した」「平岡は三千代を不幸にした」「自分にも責任がある」「自分が三千代を求めることは自然だ」と理屈を足すのは全部後付けで、選択は無意識がしたことなのだ。無意識が「自分が平岡に三千代を斡旋した」「平岡は三千代を不幸にした」「自分にも責任がある」「自分が三千代を求めることは自然だ」と考えたわけではなかろう。

 そう思ってみれば、

「打ち明けて下さらなくっても可いいから、何故」と云い掛けて、一寸と躊躇したが、思い切って、「何故棄ててしまったんです」と云うや否や、又手帛を顔に当てて又泣いた。
「僕が悪い。勘忍して下さい」
 代助は三千代の手頸を執って、手帛を顔から離そうとした。三千代は逆おうともしなかった。手帛は膝の上に落ちた。三千代はその膝の上を見たまま、微かな声で、
「残酷だわ」と云った。小さい口元の肉が顫う様に動いた。

(夏目漱石『それから』)

 この「何故棄ててしまったんです」には理屈では答えがないことになる。問うならば無意識に問いかけねばならない。そしてこの「何故棄ててしまったんです」という意思決定のシステムへの根源的な問いが『明暗』においてはさらに自由意志と非決定論の問題として捉えなおされている点を見なくてはなるまい。

「この肉体はいつ何時どんな変に会わないとも限らない。それどころか、今現にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」
 ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっと後から突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心の中で叫んだ。
「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」

(夏目漱石『明暗』)

 肉体の変化が意識に登らないのであれば、無意識の変化が意識に登らないのも当然ではないか。ならば意識とは何なのか。

「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」

(夏目漱石『明暗』)

 漱石は津田由雄に自分の自由意志を明確に疑わせている。こんなものが有象無象により「近代的自我」などというお馬鹿な概念に押し込められてきたことに今更ながらぞっとする。

 翌日眼が覚めると、依然として脳の中心から、半径の違った円が、頭を二重に仕切っている様な心持がした。こう云う時に代助は、頭の内側と外側が、質の異なった切り組み細工で出来上っているとしか感じ得られない癖になっていた。それで能く自分で自分の頭を振ってみて、二つのものを混ぜようと力めたものである。彼は今枕まくらの上へ髪を着けたなり、右の手を固めて、耳の上を二三度敲いた。

(夏目漱石『それから』)

 代助は自分の脳を疑っている。こうなると比類なき〈私〉とはなんなのかという話になる。そもそも腸内フローラは〈私〉なのだろうか。
 代助は腹の中で首を捻る。
 そもそも日本語では「腹の中」が「心の中」と同じような意味に使われてきた。この腹と脳と心の問題が、『坑夫』以降繰り返し問われてきて、その過程の中に代助の脅迫のような告白という思考実験はあった。

 そもそもこれは男女の自由恋愛の話ですらないなと書いているのは、私ではなく私の無意識である。



[余談]

 

 恐らくこういう人は『はだしのゲン』を読んではいまい。彼の怒りは原爆を投下したアメリカ大統領には向けられていない。
 私が芥川、漱石、谷崎などの作品を、「読めていない」という時、基本的にはこういう誤解を指摘している。
 例えば『こころ』の先生は乃木夫妻の殉死を手放しで賞賛はしておらず、ゲンの怒りはアメリカ大統領にではなく昭和天皇個人に向けられていた。

 それが分からないで読んだ気になっていては恥ずかしい。
 本を正しく読むことは全ての基本ではなかろうか。



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